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土偶

 

 縄文人にとって『祈り』や『祭り』は、極めて重要な生活の一部であったことは想像できます。ところが、祈りや祭りのために作られたと考えられる土偶の使い方について、今確かなことはほとんど判っていないのです。

現在、知られている最古の土偶は、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で、2004(平成8)年に見つかった、約1万2000年前のものです。長さ6.8センチ、幅4.2センチ、厚さ2.6センチの小さな逆三角形の粘土の塊に、頭部の突起がついている簡単なつくりで、それが人の形を模したものとは思えないほど曖昧な形ですが、乳房を表す二つの大きな隆起があります。

土偶が縄文世界にたびたび登場するのは早期の中頃です。北海道、関東、近畿、九州で出土例があります。

前期の終わり頃、人々の定住が安定した東北地方~北海道南部に『板状土偶』または『十字形土偶』と呼ばれる土偶が現れます。板状土偶は人体を簡略に十字形に表現したもので、足はありません。乳房とヘソまたは女性の陰部と思われる部分が表現されています。

中期になると立体的な立像土偶が、東日本全域に広がります。北海道や西日本への本格的な波及はもっと遅れて後期以降のことです。

中期から晩期にかけて出っ尻土偶、出産土偶、ハート形土偶、山形土偶、ミミヅク形土偶、遮光器土偶など特色ある土偶が各地で作られました。晩期には大型で中空のものが作られました。東日本ではしゃがんだ姿のものが多くあります。

これらの土偶にはいくつかの共通点があります。

① 土偶は女性を模したものと考えられます。乳房がはっきりと確認できるものや、女性の性器が具体的に表現されているものがありますが、男性の特徴を表現したものはこれまでには全く見られません。

② 腹部に縦に線が表現されているものが多くあります。首から性器までの長いものや、ごく短いものなどがあります。単線をヘラで引っ掻いただけのものから、粘土紐を貼り付けたもの、複雑な紋様のあるものなどさまざまです。

③ 最も顕著な特徴は、壊されていることです。土偶は完全な形で見つかることはほとんどありません。しかも同じ遺跡から発掘された破片を集めて元の姿に復元できることもありません。例えば、山梨県の釈迦堂遺跡から出土した千点以上の破片から元の姿に復元できるものは一点もありませんでした。土偶はあらかじめ壊されることを予想して作られているのです。一つの粘土の塊から形作られるのではなく、壊される部分を別の粘土塊から作っておき、それらをくっつけて全体を仕上げてあるのです。

 

土偶の意味について、玩具説、護符説、呪物説、地母神説などさまざまな説がありますが、決定的なものはありません。縄文研究の第一人者小林達雄さんは「造形力の充分あった当時の人々が、人間の姿を生のまま写生をしないで、わざとこのような形に作ったのは、祈りの対象として神とか聖霊の仮の姿を表現したのではなかろうか」と言っています。

また、藤森栄一さんは、土偶が作り始められた頃には既に植物栽培が始まっていたことを前提として、土偶は食物の豊穣を支える地母神と位置づけ、「腹部が膨満し、乳房の張った女神像の土偶は、どこか身体の一部を欠かれて竪穴内に秘められている。この生きとし生けるもの、食物を生む地母神はもうどこへも行かれない。そしてその家の人々のために新しい命や食糧を生み続けるのである。虐殺された保食神(ウケモチガミ)やオオゲツヒメなどの女神の死体から五穀が生まれてくる思想は、記紀にてらして見ても、わが古代人の心の奥に住んでいたものと考えてよいだろう」と言っています。

これを神話学の立場から支持した吉田敦彦さんは「縄文時代は、狩猟と採集で生活を支えてきたと考えられてきたが、最近ではかなり早い時期から、作物の栽培が行われていたことが立証されてきた。土偶をいろいろな形に念入りに作っては壊す祭が、作物の豊穣を願ったものとすれば説明がつく。」として、インドネシアのセラム島に伝わる民話を紹介しています。

「世界で最初に生えたココヤシの樹の上で、実の成るように一人の女の子が生まれた。この樹の持ち主アメタという男がこれを見つけて樹から下ろすと、少女はたちまち妙齢の乙女に成長した。この乙女は名をハイヌエーレといい、毎日大便をするように生活に必要な什器を排出し、アメタは裕福になった。乙女はこのようにして胎内から排出したさまざまな物を村人にも分け与えた。はじめ村人たちは、喜んでいたが次第に妬みに変わり、ある夜、乙女を落とし穴に投げ入れて生き埋めにして殺してしまった。翌朝、アメタは死体を掘り出して、これをいくつにも切り刻んで一つずつをそれずれ別のん場所に埋めた。すると、それぞれの場所から異なったイモが発生した。このお陰で人々はイモを食べることができるようになった。」

この話は、作物の起源を説明したもので、ドイツの人類学者イエンゼンが乙女の名を採って「ハイヌエーレ型作物起源説話」と名付けたものです。この型の女神の死体から食べ物が発生する話は、東南アジア一帯から北アメリカ大陸にまで広く分布しています。そしてわが国では、古事記、日本書紀にもオオゲツヒメとウケモチガミという名で、女神の死体から穀物が発生したという話を載せています。

これらの説だけで、土偶のなぞが解明されたわけではありませんが、魅力ある説だと思います。

国際日本文化センター教授の安田喜憲さんは吉田敦彦さんの地母神的女神殺しの説を支持して「日本列島ではココヤシではなくクリの樹の根元に土偶の破片を埋めて、栗の実の豊穣を祈ったのではなかろうか」と説明しています。「ハイヌエーレ型説話と土偶を結び付けて説明するのはムリがある。」とする学者もいるのです。これは一つの仮説であることは言うまでもないことです。

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