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はにわ

 

 古墳の外表面に並べて置かれた素焼きのやきものを「埴輪(ハニワ)」といいます。埴輪には土管のような筒状の形に透かし彫りが施されていたり、帯状の突帯を巡らせているものなどの円筒埴輪、武具や祭器、舟、家屋などを模した器物埴輪、犬、猿、馬、鳥などの動物を模った動物埴輪、武人や巫女、その他さまざまに人物を表現した人物埴輪などがあります。

 日本書紀の垂仁天皇の条に「二十八年、天皇の叔父倭彦命(ヤマトヒコノミコト)が亡くなり、その陵墓には多くの殉死者があった。この様子を天皇は傷ましく思い、この風習を無くしたいと思っておられた。三十二年、皇后の日葉酢媛命(ヒハスヒメノミコト)が亡くなった。このとき殉死を無くす方法を下問したところ、野見宿禰(ノミノスクネ)が、故郷出雲の土師部と共に埴土で人や馬、種々の物の形を作って献上した。天皇は喜んで、この土物を皇后の陵墓に立てた。これを埴輪または立物と名付け、野見宿禰には土師臣(ハジノオミ)という姓を与えられ、以後、土師連(ハジノムラジ)が天皇の葬儀を司ることとなった」という埴輪制作の発端を物語る記述があります。しかし、この伝説は、考古学発掘調査等によって判った埴輪に発生を正しく伝えるものではありません。

 日本書紀には、埴輪にまつわるお話がもう一つ載っています。

 雄略天皇九年七月の条「河内の国飛鳥戸郡の人、田辺史伯孫(タナベノフヒトハクソン)は、娘の出産のため、古市郡の婿の家に祝賀に出かけ、月夜に帰途についた、ちょうど誉田陵(応神天皇陵)のそばを通りかかったとき、赤い馬に乗った人に出会った。その赤馬の動きは非常に敏捷ですばらしく見えた。伯孫は心の中で「この馬が欲しい」と思い、乗っていた葦毛の馬に鞭打って頭をそろえてみたが、赤馬は躍り上がり、走りまわり、その速さはとても追いつけなかった。赤馬に乗った人は、伯孫の願いを察して馬を交換してくれた。伯孫は大いに喜んで帰宅した。翌朝、厩へ行って見ると赤馬は埴輪の馬になっていた。伯孫はあやしんで誉田陵へ戻ってみると、自分の葦毛が埴輪の列に並んでいたので取り替えて帰宅した」

 埴輪は、大型古墳の造営とほぼ同時期の三世紀後半から六世紀末頃まで作られ、陵墓の表面に立てられました。日本書紀が撰上されたのは八世紀初期の七二〇年で、これは古墳の造営や埴輪の製作が跡絶えて百年余りが過ぎた頃のことです。当時の人々は、大規模な陵墓に埴輪が立てられていたことを忘れていなかったのか、まだいくつかの古墳では立てられた埴輪を実際に見ることができたのでしょうか。

 

 人が亡くなると遺体を埋葬する習慣は縄文時代に既に見られますが、期限前二〇〇年頃、北九州と近畿地方に低い墳丘をもつ低墳丘墓が現れました。これらはそれぞれの地域の首長または王の墓と考えられています。一世紀頃に作られた福岡県須玖岡本遺跡や三雲小路遺跡の墳丘墓には、甕棺が使われていて、棺の中からは豪華な副葬品などが見つかっています。これらはそれぞれ奴国、伊都国の王の墓だと考えられています。ほぼ同時期、大阪でも、もと河内湖畔にあった加美遺跡では、墳丘の周囲に溝が巡らされた方形周溝墓が見つかっています。

 二世紀になると、各地に独自の墳丘を持つ大型墳丘墓の造営が盛んになります。特に瀬戸内海地方では、めざましい発展が見られます。岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は、直径四〇メートルの円丘の両側に突出部のある前方後円墳の原型のようなもので、墓壙内の木棺には玉類、鉄剣が埋葬されているほか、墳丘の上には巨石を置き、正面に顔面を思わせるような石像を配し、墳丘の斜面には二重の列石が並べてあります。一方、日本海側の地方にも、大型墳丘墓の四隅が突出した形の四隅突出形方形墳丘墓が流行します。

 三世紀になって、奈良県桜井市(三輪山の西麓)に、一、キロメートル四方にも及ぶ大集落が発生しました。この集落跡を纒向(マキムク)遺跡と言い、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡などの四倍ほどの大きさです。延々と矢板で護岸された運河、東西南北軸に沿って整然と並んだ掘っ立て柱の建物跡、瀬戸内西部から南関東地方に及ぶ広い範囲の各地で作られた土器が大量に見つかるなどのほか、百メートルを超す前方後円墳が五基もあって、この墳丘からは、吉備地方で発生した特殊器台や弧帯文様を施した木の板などが見つかっています。この五基の墳丘は纒向型前方後円墳と呼ばれ、前方部の短い帆立貝のような形のもので、瀬戸内西部地域や、南関東の土器を送り出したと思われる地域にも築かれていることが判ってきました。

 三世紀の末頃、この遺跡の南端に全長二七三メートルの箸墓古墳と呼ばれる形の整った巨大前方後円墳第一号が築かれました。日本書紀によるとこの箸墓古墳の被葬者は倭迹迹

日壱百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)ということになっていますが、魏志倭人伝に登場する卑弥呼のことではないかとする説もあります。纒向遺跡は初代大和政権の発生地であろうと考えられているのです。弥生時代に造られた墳丘墓はローカルカラーの強いものでしたが、箸墓古墳が造られた後は、前方後円墳の基本設計による定型化したものに統一され各地にこの様式が伝わりました。各地の首長たちが、大和政権の支配化に統合されていく過程であると考えられます。

 

 弥生時代の末期頃、吉備(岡山県)地方を中心とした墳丘墓に、後の円筒埴輪につながる葬送祭祀用の特殊器台と呼ばれている土器の置かれているものが出現しました。特殊器台土器というのは、三角形や巴形の透かし孔と組み帯文様などで飾られた筒形の胴部に受け口の口縁部と裾が外側に広がった脚部がついている土器です。この筒状の土器の上に、底や側面に透かし孔があけられた壷形土器が載せてありました。はじめ、特殊器台土器と壷形土器は墳丘墓の中心に置かれていたようです。これは、死者や神に食べ物を供えることを象徴しているものだろうと想像されます。やがてこの二つの土器を一体化した朝顔形と呼ばれているスタイルのものと器台を単純にした円筒形埴輪へと定型化するとともに、古墳の周囲をとりまく埴輪列として置かれるようになりました。

 円筒埴輪は、近年まで墳丘の土の流失を防ぐために使われたものだと考えられてきましたが、実は墳丘上の斎場を取り囲む玉垣のように、朝顔形埴輪をはさみながら並べられたもののようです。

 奈良県桜井市にあるメリス山古墳は、四世紀前半から中頃に作られたと考えられる大型前方後円墳です。この古墳の発掘調査によると、後円部の頂上には長方形の壇が築かれていて、その周囲には大きな円筒埴輪と朝顔形埴輪が二重に巡らされていました。ここで使われている埴輪の内で、最も大きなものは高さが2.4メートル以上もあり、これはこれまでに見つかっている最大の埴輪です。

 円筒埴輪に続いて4世紀には、高杯や蓋(キヌガサ)が多く作られるようになり、祭祀的色彩が強まりました。これに続いて家形埴輪が登場します。家形埴輪は埋葬施設の真上にあたる墳頂の中央に置かれていたようで、被葬者の霊魂の依代ではないかという説や、被葬者が生前に住んでいた家を再現したとする説などがあります。

 そしてやがて、家形埴輪の周囲には、盾、靫、甲冑などの武器や武具を模った埴輪が霊魂を守護するかのように並べられ墳丘の上を飾るようになりました。

 畿内を中心に関東地方より西の地域で見つかっている船形埴輪は、被葬者の霊を高いに運ぶためのものではないかと考えられています。 

 4世紀末になると、動物埴輪の内鳥類がまず、特に鶏と水鳥が出現します。5世紀になると狩猟のようすを再現するかのように猪、鹿、犬などが現れ、また当時急速に普及しはじめた騎馬の風習を反映して馬が登場します。

 

 5世紀半ば頃から後半にかけて、大阪平野の南部河内地方で人物埴輪が作りはじめられました。しかも、この頃の埴輪は古墳の頂上部だけでなく、裾周りや造り出しにも置かれるようになりました。

 古墳の周囲に並べられた埴輪群は、近くを通りかかった人たちからもよく眺められるようになりました。言い換えれば、人に見せることを前提に埴輪が配置されるようになったのです。

 造り出しというのは、前方後円墳のくびれた部分に設けられた方形の施設で、5世紀頃の古墳に多く見られ、埴輪や須恵器が多く置かれた例の多いことから、祭祀に関係のある施設だと考えられています。

 当時、朝鮮半島との交流が活発に行われ、新しい思想、文化や政治体制、生活習慣、技術などに大きな変革のあった時期で,葬送の祭祀にも変化があったことと考えられます。

 5世紀には河内地方に巨大な古墳が盛んに造営されました。古墳文化の最盛期、倭の五王の時代です。

 人物埴輪は5世紀の中頃河内地方で作りはじめられました。5世紀の後半には畿内では人物や動物の埴輪が盛んに作られていましたが、この影響は瞬くうちに九州や東北地方にまで広がっていきました。

 はじめ、家形埴輪を守護するかのように並べられていた甲冑や盾に、顔面や頭部がつけられて武器から武人へと変身したのが人物埴輪に最初だと考えられています。いったん人物埴輪が創作されると、新しいアイディアは次々に出現し、さまざまな人物埴輪が登場してくることになりました。

 被葬者を守護する武人の次には、古墳で行われる祭祀のようすを表現する巫女たちが登場しました。その次は、踊り、歌い、楽器を奏でる舞踏集団です。これらのほかにも、肩に鷹を乗せた鷹匠、手綱を持った馬丁、鍬を持った農夫や片腕を挙げた力士などさまざまな人物埴輪があります。

 これらの群像を配置した陵墓を想像すると、権力者の荘厳な墓所というより、賑やかで楽しげな人形劇を眺める思いすらできそうです。

 畿内を中心に九州から東北地方にかけて、盛んに行われた埴輪作りは、6世紀の中頃急速に衰退します。ところが関東地方だけは6世紀に入って定着し、後半に最盛期を迎えました。関東地方の埴輪作りは、畿内からの影響を受けつつも独自の発展を示し、自由な雰囲気の人物や動物が多く現れます。馬に乗った人物、着飾った男子と飾り馬のセット、両手を挙げて楽しそうに踊る人物のユーモラスな表情等々、埴輪職人たちの楽しく作業している姿を彷彿とさせてくれます。しかし、6世紀の末には、墳墓の様式の変化、前方後円墳の消滅とともに埴輪も作られなくなってしまいました。埴輪に表現されたさまざまな事物は、当時の風俗を推測する極めて有力な手がかりです。

茨城県常陸太田

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