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萩 一

 

 山口県の萩市とその周辺で焼かれたやきものを「萩焼」といいます。室町時代から窯はあったという説がありますが、これは確かなことではありません。通説では、毛利輝元が文禄・慶長の役の後、李勺光・李敬という兄弟を伴って帰国し、萩城下の松本村に御用窯を築かせたのが始まりだと言われています。

 毛利氏は、元就(一四九七~一五七一)のときに強力な軍団を作り中国地方一円を席巻して、安芸、周防、長門、備中、備後、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見の十ヵ国と豊前と讃岐の一部、およそ一二〇万石を領有する大大名となりました。跡を継いだ輝元(一五五三~一六二五)は、織田信長に敵対しましたが、秀吉とは和睦し、これに従い、文禄・慶長の役にも従軍しました。秀吉の没後一六〇〇年に起こった関が原の戦いでは、西軍に加担して敗れ、江戸幕府から八カ国の領地を没収され、長門と周防の二カ国三十六万石に封じられました。さらに幕府は、輝元が希望した山口や防府での築城を許さず、僻遠の地、北長門の萩に居城を置かせました。

 萩焼の窯がいつから操業を始めたのかは、正確には判っていませんが、輝元の萩への入城が一六〇四年ですから、これより後のことだと考えられます。

 萩藩にとっては、減封されたうえ、まったく新しい土地への移転ですから、しばらくの間は藩体制の整備確立のために忙殺を極めたことと想像されます。

 この間の李兄弟の消息は不明です。

 およそ二〇年の後、一六二〇年代の中ごろから、李勺光は山村姓を、李敬は坂姓を名乗り、藩から食禄を給せられて陶業に従事している記録が見えはじめます。その後陶業は順調に発展し、弟子たちもそれぞれ独立するなど、御用窯としての体制は整備が進み発展していきました。当時、山村氏、阪氏のほかに佐伯氏、三輪氏が藩窯として操業していました。

 一六五七年、山村家の弟子たちが、萩から西へ約三〇キロ離れた現在の長門市深川(ふかわ)湯元の三ノ瀬という場所に、新しい窯を作り独立しました。この窯を深川萩といい、元の窯を松本萩といいます。

 松本萩は藩直営の窯で、製品は藩庁によって管理され一般に出回ることはありませんでしたが、新しく出発した深川窯では、一部に「自分焼」と言って、民間の需要に応じる製品を作ることが許されていました。民窯的な性格がありました。このため支藩の岩国藩からの注文を受けたり、また、江戸時代を通して、朝鮮通信使の来朝の時には、下関、上関における藩の接待に使う食器類の調達にも応じ、松本萩に対して脇役的な立場にあったとも考えられます。

 

 

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