陶芸家 江口滉
縄文土器
大森貝塚
徳川幕府を倒して新しく樹立した明治新政府は,欧米諸国に対して、わが国の近代化が遅れていることを実感し,先進諸国を模範とした近代化政策を採用し,「富国強兵,殖産興業」を目指しました。このため、明治初期から政府や地方官庁,諸学校などに技術や専門知識を持った外国人を大臣なみの高給で採用して,指導に当たらせました。これら人たちを「お雇い外国人」と呼び、その数は延べ500人以上にもなりました。アメリカの動物学者エドワード シベルスター モースもその一人でした。
モースは、腕足類に興味を持って研究していましたが、アメリカ沿岸には種類が少なく(4~5種)、それに比べて日本沿岸には3~40種はいると聞いていました。(現在知られているのは65種) 日本へ行って採集したいと思っていたモースは、1877年(明治10年)6月,日本へやって着ました。当初は3ヶ月滞在の予定でしたが、東京大学動物学教室の教授に着任することとなり、通算2年9ヶ月間日本に滞在しました。この間のさまざまな活動はその後の日本の文化の発展に大きな足跡を残しました。詳しくは、著書「日本その日その日」「日本お住まい 内と外」を参照してください。
横浜港に到着した彼は、その翌日に東京へ向かいました。開通して間もない丘蒸気が大森辺りを通過中、左側座席に座っていた彼は、鉄道敷設工事で削り取られた崖に貝の堆積を見つけ、「これは貝塚である」と直感しました。
1877(明治10)年9月、東京大学の学生たちと大森貝塚を発掘調査し、結果を科学雑誌「ネイチャー」に発表しました。これが日本考古学の最初となったのです。
この貝塚は,石器が比較的少なく,骨角器(シカ イノシシ)と装飾変化に富んだ土器が多く出土しました。中でも撚紐による圧痕文様のあるものが多かったことから、これらの土器の文様をコードマークと呼びました。後にこれが縄文と訳され土器と時代の呼称として定着することになりました。
日本の考古学は,モースの大森貝塚発掘から始まりました。
このときモースは,
1 大森貝塚が海岸から約800m後退している。
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私は「土器は日本列島で発明された可能性が高い」と考えています。
長い間一箇所で焚き火をすれば、地面は焼けます。地面が粘土質であれば、焼け締まります。そしてここが大量の水で流されると、周囲の土砂は流されても焚き火のあとは残ります。このような経験を繰り返すうちに「粘土を焼けば水に溶け難くなる」ことに気がつくのです。日本列島は複雑な地形であるとともに、梅雨の長雨や台風に伴う雨、地震による津波など突然局地的な水害に見まわれることが少なくありません。この不意の水害が土器の発明に重要なカギとなると思うからです。
2001(平成13)年秋以降、NHK総合テレビで「日本人はるかな旅」という特別番組が5回にわたって放映されました。これによると、およそ20万年前アフリカ大陸で誕生した人類は、やがて各地に拡散し、その一部がユーラシア大陸を縦断して、今から約5~3万年前頃にシベリアまで到達しました。いったんシベリアで地歩を固めるや、人々はその後加速度的な速さでシベリア全域に広がりました。日本列島に人々が住み始めたのは3~2万年前頃と推定しています。
当時、地球は最寒冷期にあり,海面は今より100m以上も下がり、大陸とサハリン,北海道は陸続きとなっていました。シベリアに到達したある集団は、ここから南下してサハリン・北海道を経由して日本列島に到着したというのです。またある集団は、中国北部から朝鮮半島を経て北九州に至りました。
シベリア東端,アムール川流域のカーシャ遺跡から約1万3千年前の土器が見つかっています。日本列島の縄文遺跡からもほぼ同時代の土器が見つかっていますが、NHKのプロジェクトチームは、土器の起源をシベリアに求め、この後術が人々の移動に伴って日本列島に伝わったと推定しています。
土器の編年
縄文時代は1万年以上も続きました。この時代を草創期,早期,前期,中期,後期,晩期の6期に分けて研究されているのですが、この間に全国各地でさまざまな様式の土器が興っては消える交替を繰り返してきました。今,これらの土器はそれぞれの期の中で時間差や地域差によってさらに細かく、全体で約八十種の形式に整理分類されています。
草創期(12000年前から7500年前頃まで)
最近の考古学発掘調査によると、旧石器時代の竪穴式住居址が見つかっています。旧石器末期頃から縄文草創期ころ,石斧が普及しています。これら石斧の主な用途は木材加工で,住宅建築が活発になったと考えられているのです。また、このころから気高の温暖化が始まり,海面の上昇によって遠浅の海岸が生じ、魚介類を中心とした水産資源が豊富となったこと。縄文時代になって土器の使用が始まると,壊れやすい土器を持っての移動生活は容易でないことなどから、この頃から人々は定住生活を始めたのではないかと考えられます。
このころの土器には,丸底の深鉢と平底隅丸方形の深鉢の二種があります。これらの土器の表面には小さな粘土の粒を押し付けた豆粒文,細い粘土紐を貼りつけた隆線文,爪を押し付けたような爪形文、口縁近くに横一列に小さな孔をあけた円孔文、縄目を押し付けた多縄文などが見つかっています。これらの土器は殆どが煮炊き用のものです。
早期(7500年前から5000年前頃まで)
土器作りが普及し,全国各地で作られ,その数量も増大します。北海道から東北地方にかけて,尖底土器が現れます。世界中の初期の土器には尖底ものが多く作られました。この尖底を土に突き刺して廻りで火を焚いたと教えられてきましたが、これら尖底土器の中には,割れたものを補修して使いつづけたと思われるものが少なくありません。考古学者の藤森栄一さんは「これは火にかけてものを煮るわけにはいかない。破損後,他の用に転用した廃物利用という考えもできるが,はじめから煮沸器でなかったと考える方が妥当である」と言っています。雑穀や堅果類の運搬器ではなかろうかと思われます。
またこの時期には粘土の中に植物の繊維を混ぜることが流行しました。この土器には繊維痕が気孔となって水を入れるには適当ではありません。
さらに,土器の表面を飾る文様の多様化が見られます。縄目の他に貝殻文,押し型文(ローラー)山形,格子,市松,菱目などが見られます。
そして煮沸器が大型化し,後半には直径が50cmもあるものも出現します。
このころから関東地方で土偶の生産が開始されます。土偶については後述します。
前期(5000年前から3500年前まで)
煮沸器の他に蒸し器,貯蔵のための壷、盛器としての鉢が出現し始めます。
西日本では繊維混入がなくなります。
割り竹を利用した爪型文、平行線文や縄目文が羽状を示す複雑な文様が現われ、波状口縁が流行し始めます。土器の口縁が波状に凸凹しているのは縄文土器の特徴の一つです。
中期(3500年前から2300年前まで)
縄文中期は,土器の文様が最も装飾的となり、華やかな展開を見せる最盛期です。立体的な隆線が器面を縦横にめぐり、大きな把手や突起が発達します。口縁に鎌首をもたげ、器面にどぐろを巻く蛇文、出産の瞬間を思わせるような上下に二つの顔をもつ人面深鉢、燃え盛る炎を想像させる火炎土器、人なのか蛙なのかが貼りつけられた有孔鍔付土器など数え上げればきりがありません。同じパターンが器面を3~7回繰り返すものは一定のルール(物語)がありそうです。
食器や食具の他に甕棺、火鉢のようなものや有孔鍔付土器(太鼓説,醸造器説)など特殊な土器が作られました。
縄文土器には、後の弥生土器や銅鐸などに表現された具体的な事物を写生したような文様は極めて少ないのですが、人間(または人面)と蛇だけはかなりリアルな表現が見られます。人間を表したと思われるものには,土偶をはじめ、蒸し器とされる勝坂式土器、釣手土器,注口土器などがあります。
蛇は,中期ころに鎌首を持ち上げているものなどかなりリアルに表現されたものが現れますが、波形文様や渦巻き文様も蛇を表現したものだとすれば、早くからあります。あるいは,縄そのものを蛇だと考えれば,縄目文は蛇文とも言えましょう。注連縄を神聖視する習慣は古くからありますが,蛇の交合する姿と言えなくもありません。 マムシやハブなど毒蛇に噛まれると決して助からない恐ろしい動物であると同時に,脱皮を繰り返し若返り、永遠の命を持っているあやかりたい動物でもあったのです。
縄文中期は,ちょうど地球の寒冷期にあたります。気温が下がり,湿潤化する時代でした。特に日本海側や東北地方では積雪量が多くなり、ナラやクリなどの堅果類に替わってスギやブナが多くなり,海岸線の後退によって内湾の漁労ができなくなってきたのです。食料不足に伴って人口も減少したらしく,遺跡数も少ないのです。そしてこのころ、長野県八ヶ岳西南麓に遺跡が急増するのです。人々が食べ物を求めて移動して来たと考えられています。この時期、この辺りで縄文文化が最も華やかに展開したかに見える装飾過剰とも言える土器群は、実は過密状態になった人々が過酷な条件の中で生き延びるために食料資源の規制や集団の結束などの祈りを込めて作ったのだとも考えられます。
中期には,農耕が始まったとする説もあります。イモ類は残り難いのでその存在を確認することは難しいのですが,最近では,花粉の化石を探る方法が開発されて,自生のものだけでなく栽培されたと思われる植物が見つかっているのです。今後の調査でさらに詳しく判明することでしょう。
後期(2300年前から1200年前まで)
後期になると立体的な装飾文様が減少し,沈線文様が多くなります。区画に縄目文を配した磨消文様が全国的に流行します。土瓶のような形の注口土器が盛んに作られるようになります。
奄美大島から沖縄に遺跡が多くなるのもこのころからです。
晩期(1200年前から500年前まで)
東日本では,多様な器種を作りつつ,青森県からスタートした亀ヶ岡式土器が北海道から北関東地方,新潟地方に流行します。唐草を思わせる文様を浅く浮彫りにして,朱または黒の漆が施されたものや、黒漆の上に朱漆で大胆な唐草文様を描いたものがあります。
西日本では文様が徐々に消え,弥生土器の雰囲気に近づきます。
晩期には,九州地方で稲作が開始されました。
貝文土器
前に、NHK総合テレビで5回にわたって「日本人はるかな旅」という特別番組が放映されたことを紹介しました。この放送の後NHKは、同名の本(全5冊)を発行し、放送の内容と取材の裏話などを詳しく紹介しました。興味のある方は是非一読されることをお勧めします。この放送と出版を通して、私はこれまでの常識だと思っていたことが、ひっくり返される驚くべき事実を知りました。
近年の発掘調査の結果、南九州地方に旧石器時代から縄文草創期、早期に相当する遺跡が次々と発見されて、これまでには考えられなかった新しい事実が判ってきたのです。
従来、縄文文化は、関東地方や東北地方を中心に発達し、その後西日本などに伝わったという、いわゆる「東高西低論」が一般に信じられてきましたが、南九州の遺跡の発見によって、縄文文化の研究は、大きな転換をせまられることになったのです。撚った紐(縄)を転がして文様をつけた土器を一般に縄文土器といい、この縄文土器の作られていた時代を縄文時代と呼んでいます日本列島のほとんどの地域で、縄文時代の非常に長い期間にわたって、縄文土器が作り続けられてきました。ところが、南九州では縄文時代の草創期(約1万3千年前)頃から、東日本の縄文文化の影響を全く受けない独自の文化が発達していました。土器の多くは、二枚貝を利用して文様を施したもので「貝文土器」と呼ばれています。
また、これまで縄文時代の前半の土器は、煮沸器として作られた深い鉢形、または甕形のものが一般でした。しかし、貝文土器群の中には深鉢形のほかに壷形の土器があります。この当時、ここでは壷形土器(貯蔵器)が必要な生活形態が成立していたと考えられます。しかも、この文化は南九州にとどまらず、中国、四国地方にもその文化圏を拡大しつつありました。
今からおよそ6千3百年前、鬼界カルデラが突然大噴火を起こし、その火砕流に巻き込まれた南九州に発展していた貝文文化は消滅してしまったのです。
土器の用途
話を戻して、土器つくりの技術を獲得した人々の生活の変化について説明します。
土器の多くには,その外側に二次加熱の痕があるものや内側に焦げ付きがあるなどから煮炊きの用具として作られたことが判ります。後に貯蔵器や盛付器も作られますが,最後まで主役は煮炊き用具でした。最近では,内側に付着しているわずかな脂肪酸の分析方法が開発され,何を煮たのかが判るようになっています。
土器を持つことで人々の生活は大きな変化が起りました。
Ⅰ食事の内容
土器を持った人々にとって何よりの変化は食事の内容です。植物性食材の中には,生食に適さないものがあります。イモ類の多くは加熱しなければエグ味が取れないし,マメ類もそのままでは生臭いものです。また縄文人にとって主食と考えられている堅果類(ドングリ)は,そのままでも食べられるものもありますが,加熱すれば一層美味しく食べられるもの。簡単な水晒しの要るもの。水晒しの他に加熱処理のいるものがあります。
煮沸器を手にした縄文人たちは,それまであまり食べられなかった堅果類のアク抜きの方法を考え出して,ついにこれを主食にしてしまいました。
煮炊きすることで食べられるようになったものと言えば,貝類もその一つです。硬く殻を閉ざしたシジミやアサリ,ハマグリなどを旧石器人は食べてはいませんでした。縄文早期の人々は,土器に貝と海水を入れて煮る方法を思いつきました。こうすれば美味しいスープができるとともに貝は蓋を開き簡単に食べられます。この方法はその後爆発手的に流行したと考えられます。それは各地の海岸近くに残っている貝塚が証明しています。また,貝塚の多くはその規模から一つの集落だけでは食べきれないほど大量の貝を採取していると考えられます。おそらく山間地の集落との間で物々交換が行われていたのでしょう。また肉や魚も焼くだけではなく,植物性食材と一緒に煮込めば一層美味しく食べられるようになったはずです。グルメのスタートです。
ところが彼らの中には虫歯で悩んでいた人が多かったようです。縄文早期から晩期までの13の遺跡から採取された195人分の歯2395本のうち,8.2% が虫歯を患っていました。動物の肉や繊維質の多い植物食に頼っている狩猟採取民は,炭水化物の摂取が少ないだけでなく繊維質による歯ブラシ効果で歯の表面に虫歯の原因となる炭水化物が残り難いのですが,ドングリを主食とした縄文人の虫歯率は,農耕民に並ぶほどの高率を示しているのです。
Ⅱ精神面
土器つくりを始めた人々にとって、食事の変化についで大きなものは、精神の変化です。縄文土器の表面を飾るさまざまな文様は、はじめは作るときの補助手段だったかもしれませんが、やがて文様に一定の意識が働き、ついに文様に祈りを込め、文様には人智を超えるある霊力さえ感じるまでに昇華させていったのではないかと思います。縄文中期に現れる過剰なまでの装飾は、土器の実用を拒絶しているとさえ思えます。使いにくいことを承知の上で、何故あれほど装飾にこだわり続けたのでしょう。あの装飾にはどのような祈りが込められていたのでしょう。文様に一種の霊力を持たせたと思われる勝坂式土器も日常の実用品として使われていたようです。
縄文時代に形作られた具象像は人と蛇だけです。人の像については土偶のところで説明します。
縄文土器の装飾の基調の一つは曲線です。前期の土器に施された渦巻き文や波状文の中には蛇の姿を思わせるものがあります。写実的な蛇の姿が最初に現れるのは中期初頭、長野県出土のものです。深鉢の口縁に取り付けられた山形の把手の中央に小さな立体的な蛇がついています。やがて蛇はリアルな姿となって、中部・関東地方へと広がりを見せます。中部地方の八ヶ岳山麓に展開した中期の遺跡群では、写実的な蛇身装飾が流行し、さまざまな土器に登場します。それはあたかも土器を守っているかのように張り付いた姿で現れるのです。
ところが、中期後半になると蛇の姿は抽象的となり、渦巻き文や波状文の中にその姿を隠してゆくのです。その頃になって蛇身装飾は東北地方や九州地方へも伝わります。
古代の人々にとって、蛇、とりわけ毒蛇は非常に恐ろしい存在でした。一度噛まれると助かることはなかったでしょう。しかも蛇は毎年脱皮を繰り返し永遠の命を持っていると信じられていました。日本の民間信仰の中には、蛇を対象としたものがたくさんあります。各地に残る民話を始め、古事記や日本書紀、風土記などにも登場します。
土器の廃棄
使用中の土器が壊れると捨てられることがある一方壊れてもなお補修して使いつづられる場合もあります。破片の両側に小さな孔をあけて紐で結んで使ったと考えられるものがあるのです。また,全く無傷のまま捨てられていることもありました。
貝塚を発掘して見ると、土器(完器も破片も)が捨てられた上に貝殻が堆積していることが多くあります。貝は,春に採取して処理されます。その直前に土器が廃棄されたと考えられます。これらのことから、土器の製作は、季節が決まっていたのではないかと考えられています。土器作りの季節になれば、それまで使っていた無傷のものもすっかり更新されるのです。それまでは、途中で破損してしまってもなんとか修繕をしてでも使いつづけなければならなかったのでしょう。
美術的評価
モースの大森貝塚発掘に始まった日本の考古学は、明治、大正、昭和と熱心な学者のたゆまぬ調査研究の結果,大きな発展と成果を挙げることができました。ところが,これら研究の成果は学者や研究者の仲間内だけのものであり、多くの国民の興味を引きつけるものではありませんでした。
美術家や工芸家にとっても特別な関心を寄せることは殆どありませんでした。
1952(昭和27)年,美術家として初めて縄文土器を評価し、その価値をアピールしたのは岡本太郎です。このときの経緯を彼は後に次のように述べています。
『はじめてこれにぶつかったとき、私は精神をすくい上げられるような衝撃に打たれた。実はこのとき、昭和26年だったが、上野の国立博物館で偶然の機会にぶつかるまで、私はこんな物凄い美が日本文化の根底にあったとは全然知らなかったのだ。芸術家の家庭に育ち、画家になるために美術学校にも入った。当然、美術史も学んだが、縄文土器などというものはひとかけらも出てこなかった。縄文文化は美としては、全く無視されていたからだ。私が発見したのも、博物館の先史時代の棚の片隅に、石器などと一緒に、ただの発掘品として味も素っ気もなく置かれていただけ。全くの偶然だった。確かに考古学の分野では精密に分類され、編年も進み、かなり細かいところまで研究されていたのだが、それは専門の研究者だけの問題で、我々の精神、生き方に直接関わってくる芸術ではなかった。」 「久しい間、ヨーロッパで生活して、その非常で強靭な伝統に慣らされてきた私は、日本の伝統という卑弱さ、陰湿さに憮然とし、安逸な形式主義に絶望していた。ところが縄文土器に触れて、私の血の中に力が噴き起こるのを覚えた』と述懐して、そのときの感動を一気に綴り翌年の「みずゑ」2月号に「縄文土器論」を発表しました。
『縄文土器の荒々しい、不協和な形態,文様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し,下降し,旋回する隆線文これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透きとおった神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。―略― そびえ立つような隆起がある。鈍く、肉太く走る隆線文をたどりながら視線を移して行くとそれがぎりぎりっと舞い降り渦巻く。途端にまるで思いもかけぬ角度で上向き、異様な弧を描きながら這い昇る。不均衡に高々と面をえぐり切り込んで、また平然と元のコースに戻る。一体このような反美学的な、無意味な、しかも観る者の意識を根底からすくい上げ顛動させるとてつもない美学が、世界の美術史を通じて嘗てみられたろであうか。―略― 芸術誌において彫刻は常に一定の空間を占める塊として扱われてきた。ところが、外部にあった空間を打ちに取り入れ、造形要素に転化せしめ、遂に空間そのものを彫刻化したのは20世紀のアバンギャルド、抽象主義彫刻家たちの偉大な功績である。リプシップ、ゴンザレス、ジャコメッティー等が見事に空間を構成して彫刻を新しい次元に飛躍させた。ところで縄文土器における空間処理は、これらアバンギャルド芸術の比して豪も劣らないばかりでなく、むしろ、より激しいのである。―略―私はその空間性を強調した。だがしかし単に三次元の立体として、彫刻的に鑑賞しようとするならば、それはまた素朴な現代的観念である。むしろこの土器の異様な神秘性に注目し、皮相な現実を超えた四次元的性格に考察を進めなければ的確にこの文化を理解することはできない。実はここに縄文土器の真の面目が躍如としているのである。―略―日常の用具である土器の形態、紋様にいたるまで、深い、厳格なイデオロギーを担わされていると考えなければならない。それが実用のみを主眼としていないことはその形態を見れば明瞭である。だが、またあの複雑で怪奇な縄文式紋様が、現代に於ける芸術のための芸術のごとく単に美的意識によって作り上げられたのではないことも確かだ。それは強烈に宗教的、呪術的意味を帯びており、言い換えれば四次元を志向しているのである。』と。
「日本美術の発見者たち」(東京大学出版会と)いう本の中で、著者の一人矢島新さんは『戦前の美術史学者にとって、日本美の頂点は、皇室を中心に洗練された王朝美だったはずである。―略―極端な言い方をすれば、古墳時代の前は神話の時代であり、縄文時代はありえなかったのである。―略―縄文土器は先住民であるところのコロボックルかアイヌの手になるもので、天孫降臨に起源する大和民族が作ったものではない、即ち、日本美術とは言えないと考えていたのかもしれない』と述べておられます。
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