陶芸家 江口滉
沖縄二
テレビのニュースで沖縄県知事室が映し出されると、背景に美しい文字の書かれた大きな屏風を見ることがあります。この文章は一四五八年首里城正殿に掲げられた梵鐘(万国津梁の鐘)の銘文です。その冒頭はおよそ次のように書かれています。
「琉球国は南海の勝地にあって、朝鮮、日本、中国と深い結びつきをもち、海から湧き上がった蓬莱島(理想郷)のような島である。貿易船を操って世界の架け橋の役割を果たし、国内至るところに世界の至宝が充満している。」貿易国としての繁栄ぶりを謳歌しているのです。
この繁栄ぶりは、日本の権力者たちに注目されていました。なかでも距離が最も近く、朝鮮出兵につづく関が原の戦いの敗戦で、政治、経済ともに窮地にあった薩摩藩にとっては垂涎の的でした。一六〇九年薩摩藩は江戸幕府の許可を得て、三千の軍を派遣して琉球国を武力で制圧しました。侵入後は検地を行い租税の徴収を行うとともに、王府の人事に介入するなど支配体制を作りあげ、与論島以北の奄美五島を薩摩領としました。一方明国との交易関係は温存させ、外見上独立国の体裁は残しました。
沖縄の人々は日常生活に必要なさまざまの道具・器具の殆どを交易品の一部で充たしていました。しかし、薩摩の侵入後はこれらの交易品を自由に使うことができなくなり、民間の需要を補うために島内で産業を興すことになりました。沖縄の工芸品の多くは、必要に迫られて始まった島内産業のひとつです。
沖縄の陶器
十五世紀頃、ラオロンという蒸留酒の製法とともに、これを入れるための無釉の壷(南蛮焼)の焼成法がシャム(タイ)から伝えられたようで、これが沖縄のやきものつくりの始まりだといわれています。沖縄では無釉のやきものを「荒焼」と呼び、これらの窯は読谷村の喜名、沖縄市の知花、那覇市の壷川、壷屋などで焼かれていました。
薩摩の侵入後、王府は薩摩藩に願い出て,朝鮮から渡来していた陶工一六,一官,三官の三名を招き,一六一七(元和三)年頃から湧田で陶器製造の指導に当たらせました。沖縄における施釉陶器のはじまりです。
中国で陶技を学んで帰国した平田典通は赤絵の技法を伝えたといわれ,沖縄の代表的な陶工の一人です。中村渠到元は八重山に陶法を伝えたり,薩摩で陶技を磨くなど沖縄陶器の発展に数々の功績を残しました。湧田窯は,現在の県庁の辺り一帯で,瓦窯,荒焼き,上焼きがそれぞれ配置されていて,優れた多くの陶工たちが活躍しました。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 茨城県常陸太田市美里町 |
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