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灰釉

 

 灰釉は草木の灰を主原料として、これに長石や粘土などの土石類を混ぜ合わせて作った最も原始的な高火度釉です。また灰釉は東洋の焼物の基本的な釉薬で、中国、朝鮮、日本、タイ、ベトナム、クメールなどの施釉陶磁器は全て灰釉を母体として発展したものです。

 最初は窯の中に並べられた陶器に焼成中の薪の灰が降りかかり、灰の成分(酸化カルシゥムなど)と粘土の成分(酸化ケイ素)がおよそ1200度の高温の元で結合してガラス質の釉薬となったのです。このように窯の中で自然に釉薬となったものを自然釉といいます。

 草木の灰が釉薬の原料になることに着目して作られたのが灰釉で、その後長い年月の間に工夫改良が重ねられ、さまざまな釉薬に発展しました。

 中国では、紀元前1500年頃の殷の時代に既に施釉陶器は作られていましたが,日本では、それよりも2300年も遅れて8世紀の中頃(奈良時代)になって漸く現われるのです。日本の奈良時代は、中国では唐王朝の全盛期に当たります。周辺諸国は競うように使者を長安へ派遣して、友好関係を結び、先進の文物の吸収に努めていました。日本も遣唐使や留学生を送り、律令はじめ仏教や学問、さまざまな技術を積極的に学び、その導入を図っていました。

 かつて、わが国の焼物の歴史の中で平安時代は不明の時代でした。ところが、1956(昭和31)年から1960(昭和35)年にかけて進められた愛知用水建設工事に伴って発見された、名古屋市東部一帯に展開していた大規模な古窯群(猿投窯)を調査した結果、ここでは5世紀前半から12世紀末または14世紀の初頭までの約900年間、登記生産が行われていたことが判ったのです。特に奈良時代の末から平安時代にかけて灰釉陶器の開発が行われ、わが国の焼物の生産地の最先地域として極めて質の高い製品が主に都や各地の官衙、寺院にはこばれていたのでした。

 

 奈良時代の末頃に、猿投窯では精選した上質の粘土を使い、窯詰めのときに灰被りができるように配置を考えるなど、灰釉陶器を作る工夫がなされていたようです。9世紀前半(平安時代前期)には高火度の施釉陶器として定着し、その後の日本の陶器の出発点となったのです。

 このように最初は猿投窯ではじまった灰釉陶器の生産は、やがて尾北,美濃,遠江,伊勢へと拡大しましたが、東海地方から外へは広がることはありませんでした。灰釉陶器の粘土は須恵器の粘土よりも高温に耐えるものでなければなりません。このような上質の粘土を見つけることが難しかったからだと考えられています。

平安時代の初期,日本後記の815(弘仁6)年の条に「造瓷器生 尾張山田郡ノ人三家人部乙麻呂等三人 伝習成業 准雑生 聴出身」とあります。これは「尾張の人乙麻呂たち3人に対して技術習得が出来たので、官吏に準ずる待遇を許可した」ということで、国策として焼物つくりの技術向上が図られていたことを示しているのです。

8世紀末頃から9世紀にかけて生産技術は向上し,生産量も増大しました。ロクロの技術は,碗,皿類に糸切り高台が見られ,一塊の粘土からいくつもの器形を挽き出す水挽きが行われたことを示しています。碗,皿類の量産のため,トチン,ツク,ヨリ輪などの窯道具が使われるようになりました。これらの道具は中国の唐から五代にかけてのものと同じで,技術の伝来の証しです。

 

  延喜式によると,朝廷は大和,河内,攝津,和泉,近江,美濃,播磨,備前,讃岐,筑前からスエノウツワモノ(須恵器)を調達し,尾張,長門からはシノウツワモノ(施釉陶器)を提出させたことになっています。しかし,長門では,これまでのところこの時代に施釉陶器を作った形跡が見つかっていないのです。

 

  灰釉陶器は,須恵器の流れをくむ日常容器や祭祀用の器物のほかに,新しく長頚瓶,水瓶,浄瓶などの仏器,碗,皿などの食器類が作られました。猿投窯で製造されたこれらの灰釉陶器は,輸入陶磁に次ぐ高級品として扱われ,需給先は,宮廷,官衙,寺院などに限られていました。

 

  需要量の増大,生産量の増加に伴って,生産地も広がり,10世紀後半から11世紀頃には,全国の各地に運ばれて,一般の集落跡からも出土します。

  11世紀後半になると一部の上手もの以外は,例えば碗,皿類は量産のためトチを使わず重ね焼きをしたために周囲だけに施釉するなど,質の低下が起こりました。

  日宋貿易による中国陶磁の輸入が増加し,上層階級では灰釉陶器を使わなくなったのです。

  12世紀頃,窯は分焔柱をもつ効率の良いものに改良され,量産大勢に拍車がかかり,無釉の山茶碗が盛んに作られました。

  山茶碗  尾張,三河の丘陵地で発掘される無釉の粗雑な小型の鉢で,行基焼きと呼ばれたこともあります。平安時代末期から,鎌倉時代を経て室町時代末頃まで瀬戸,常滑など広範囲の窯で焼かれました。農民のための食器だとも考えられますが,当時の人口と比較して生産量が多すぎることなどから,生産の目的は謎に包まれています。宗教的な用途があったとも言われていますが,決め手はありません。

 

灰釉陶器の形には、須恵器の流れをくむ長頚壷、広口短頚壷、平瓶などのほか、金属製の仏具を真似た水瓶、浄瓶、花瓶などや、中国から輸入した青磁や白磁の製品を写そうとした皿や碗、水注、合子、托、四足壷などさまざまな物がありますが、中心となったのは食器として使われる碗、皿類でした。

 9世紀(平安時代前半)の灰釉陶器は、その種類も豊富で、碗や皿などの日常食器も一つ一つが丁寧に作られていました。当時、都の最上流階級の貴族たちは、中国から輸入された青磁や白磁を使うことができましたが、これに手の届かない多くの公家や寺社などは、最も新しい技術を駆使して作られた国産品を競って求めたのです。

 灰釉陶器は、高火度の施釉陶器で、同時代に作られていた低火度の緑釉陶器と比べて丈夫であり、実用に適したもので、さまざまな需要に対応して作られました。初めはごく限られた都の公家や官衙、自社など特定のところへ供給されていたのですが、やがて量産体制が確立するにつれて、10世紀以降になると、北海道を除く日本の各地に運ばれて、実用的な日用品、什器として一般にも普及し、使われるようになりました。

 需要が増大して、大量生産化が進行すると、いつものことながら製品は粗雑になり、質の低下は免れないもののようです。

碗や皿のような食器類の量産に拍車がかかり、やがて、灰釉陶器本来の目的を忘れられ手しまったかのように、釉薬を施すことを止めて「山茶碗」と呼ばれる無釉の碗や皿の生産に大きく転換してしまったのです

猿投を中心とした東海地方で施釉陶器の生産が始まり、やがて需要に応じて大量生産が確立し始めた10世紀頃、窯にも改良がありました。これまで5世紀前半に、窯にも改良がありました。これまでは、5世紀前半に朝鮮半島から伝えられた窖窯が使われていたのですが、焚き口の奥、燃焼室と焼成室の境目の場所に分焔柱と呼ぶ柱状の構造物が設置されたのです。これは、燃焼室からの焔をここで左右に分けて窯内全体に熱が均等に広がるように工夫したものです。

この分焔柱の設置は、後に窯が大型化してゆく過程で、徐々にその数を増し、燃焼効率を高めることを容易にしたもので、窯の構造の変遷上、極めて重要な発明であったと言えます。

須恵器~灰釉陶器
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市3

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栃木県市貝町

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栃木県那須市

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栃木県那須市2

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栃木県那須那珂川町

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栃木県宇都宮市

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群馬県水上町2

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群馬県前橋市

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群馬県前橋市2

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埼玉県嵐山町

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群馬県某所

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埼玉県東松山市

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埼玉県東松山市2

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埼玉県浦和市

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埼玉県岩槻市2

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埼玉県長瀞町

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東京都某所

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東京都某所2

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神奈川県小田原市

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神奈川県小田原市2

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神奈川県茅ヶ崎市2

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神奈川県茅ヶ崎市3

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神奈川県横浜市2

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