top of page
須恵器~灰釉陶器
須恵器

 

須恵器

 

 須恵器は古墳時代の中頃(5世紀中期)に朝鮮半島から技術が伝えられた陶質土器の一つです。陶質土器というのは、土器ほど粗雑ではなく、還元焔によって焼き締められた堅いやきもののことで、日本の須恵器や、朝鮮半島の新羅焼きなどの灰色陶器、中国の殷周以降の灰陶などがこれに該当し、これら全部その源を紀元前2500年頃に黄河中流域で展開した竜山文化に発し、ここで盛んに作られた黒陶と同じ系統のやきものです。黒陶は超還元焼成(燻べ焼き)によってできるもので、これは還元焼成が緻密で堅いやきものを作ることを活用した技術であると考えられます。

 この技術はやがて、中国各地に拡散伝播し、一つは中国東北部から朝鮮半島に展開した高句麗地方へ、もう一つは中国南部江南地方を経て朝鮮半島南部に伝えられたようです。わが国への伝来は、5世紀の中頃、当時近畿地方に成立したばかりの大和朝廷(大王国家権力)によって朝鮮半島から技術者を招いて開始されました。

 日本に須恵器の技術が伝えられたことについて「日本書紀」には次のような記述があります。

垂仁天皇の条に「近江の国の鏡村の陶人は、新羅国王の子、天の日槍(アメノヒホコ)が新羅から従者としてつれてきた者であった。」

雄略天皇7年の条に「百済から手末の才伎(タナスエノテヒト=手先を使う技術者)新漢陶部高貴(イマキノアヤノスエツクリノコウキ)・鞍部堅貴(クラツクリノケンキ)・画部因斯羅我(エカキインシラガ)・錦部定安那錦(ニシキゴリジョウアンナコム)・訳語卯安那(オサミョウアンナ)等を招き上桃原と下桃原に住まわせた)などと記されています。

また、須恵器はかなり早くから茶人や趣味人たちの間で、行基焼きと呼ばれて珍重されていました。江戸時代の中頃から旅行ガイドブックとして刊行され多くの人々に親しまれた「名所図会」の河内編には「高安郡の山里、郡川のほとり、千塚とて、太鼓の窟多し、その中より陶物出る。これ神代よりの品物にして猿田彦命のつくりしたまいやらん」と記されています。

亦、明治10年に発行された「工芸志料」には「陶工(スエモノツクリ)は太古よりあり、而してその誰に始まるかを知らず。当時和泉の地に陶邑あり、陶器を造ること最も多きを以ってこの名あり」とあります。

明治時代以降しばらくは祝部(イワイベ)土器と呼ばれていましたが、元々これは「スエノウツワモノ」と呼ばれていたことを根拠に、昭和になって須恵器と呼ぶことが提唱されて、戦後、「須恵器」の名が定着しました。

 

戦前までの須恵器は、一部趣味人が骨董品として愛玩することはありましたが、学術的な研究は必ずしも積極的ではありませんでした。

1945年8月、太平洋戦争に敗れたとき、日本の農業や工業は壊滅状態でした。何をおいても先ず、復興が急がれました。国策の一つとして食糧増産のため各地で新田開発が促進されました。

愛知県の知多半島は、周囲を静かな海に囲まれていながら、大きな河川がないため、昔から慢性的な水不足地帯でした。ここに農業、工業と発電のための水を供給することを目的として、岐阜県南部の兼山から木曽川の水を導入して、名古屋市の東側を通って知多半島の南端まで、幹線水路約112km、支線水路を併せると延べ1135kmの用水路を5年がかりで造り、1963(昭和38)年に完成しました。このとき、名古屋市の東側一帯の丘陵地で古窯跡がたくさん発見されました。

また、1969(昭和44)年には、東名高速道路が開通していますが、この工事のときにも多数の窯跡が見つかりました。名古屋市の東側一帯は、海抜100m前後の丘陵地帯で、ここに散在している窯跡は、5世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)までのおよそ900年間操業していたわが国最大級の陶業地であったことが判りました。この一帯の窯跡地を「猿投山南西麓古窯群」といい、後に瀬戸、多治見地方に展開する陶業に継承されたのです。

1963(昭和38)年、大阪府の海岸線一帯に臨海工業地帯を造成するため、泉北丘陵の土砂を埋め立てに利用して、削り取られた跡地には大規模な住宅団地を作る計画が進められました。このとき、泉北丘陵の一帯から、非常に多くの窯跡が見つかりました。この辺りには「陶器山」という地名があり、古窯のあることは以前から知られていましたが、想像をはるかに超える規模だったのです。

1975(昭和50)年から1985(昭和60)年にかけて、関西国際空港や阪和自動車道の建設が行われました。このときも窯跡がたくさん見つかりました。その他工業団地、住宅団地、道路工事などに伴って、窯跡は続出し、これまでに調査の終わったものは500基以上、調査のできないまま壊されてしまったものを含めると1000基以上の窯があったと考えられています。

これらの調査の結果、泉北丘陵の須恵器の窯跡は、日本で最初に須恵器の生産が行われ、平安時代に廃絶するまでのおよそ700年間操業を続けていた場所であったことが、はっきりと証明されたのです。

 

須恵器は日本列島の中で作られたやきもののうち、最初にロクロを使って形作りが成され、窯の中で焼かれた画期的なものでした。形作りにロクロが使われたと言っても、今日やきもの作り一般に見られるロクロの使い方、即ち回転の遠心力を利用して、盤上の粘土の塊から形を挽き出す水挽きではありませんでした。須恵器の形作りの方法は、作られるものの大きさには関係なく、三つの過程に分けられます。第一の段階では、盤上で平たく延ばした底部の周囲に粘土紐を積み上げて、およその原形を作ります。次に第二段階では原形の内側に当て木を当てて、外側から板で叩きます。これは粘土紐の接着を完全にすることや器壁の厚さを均等にしながら全体の形を整えていく最も重要な作業です。器壁の内側に当てる当て木や外側から叩く板には、叩くときに粘土がくっつきにくくするための刻み文様が施されています。このため、須恵器の表面や内側面には独特の文様が叩き痕として残っているものが少なくありません。

須恵器を作る際、底から口縁までを一気に仕上げることはほとんどありません。大きなものを作るときには、粘土紐の積みあげを2~3回に分けて、積んでは叩く作業を繰り返しながら形を整えます。甕や壷は体部と口頚部とを別々に作って、それらをくっつけたり、高杯や脚つきの壷などは、体部と脚部を別々に作って、あとで接合したのです。形つくりの最後の行程は仕上げです。仕上げの手法で最も多用されたのは、ロクロの上に乗せてゆっくり回転させながら、作品の表面を湿らせた布などで撫でて表面を整える方法です。ヘラ描きやスタンプを使って文様を施すのも仕上げの作業の一つです。

須恵器の多くは、青味がかった灰色で、華やかな雰囲気のものではありません。これは、焼成中に窯の中に空気を十分に送らずに酸素不足の状態、即ち還元焔で焼かれたからです。普通、やきものは酸化焔よりも還元焔のほうが固く焼け締まるのです。

須恵器を焼いた窯跡は、今も各地に残っていますが、これらの窯は一基だけが孤立している場合は、ほとんどなく、多くは数基または10数基、ときにはもっと多くの窯跡がまとまって群として見つけられます。窯跡のある所は丘陵地で、粘土や薪が容易に採取できる場所が選ばれました。

窯の構造は、焚き口から床面、煙出しまでが一続きのトンネル状態で、窖窯(アナガマ)と呼ばれています。床面の傾斜はほぼ水平に近いものから、40度前後の急斜面のものまでさまざまですが、基本的な構造に違いはありません。いづれの場合も、窯の全長は焼く10m、床面の最大幅は約2m、床から天井までの高さは1.5mほどの大きさです。

 

須恵器はその用途から、貯蔵用、食卓用、調理用などの日用品と葬祭共献用の二つに分けることができます。器形には壷、瓶、甕、鉢、盃、高杯、盤、皿などの種類があって、形態の大きさや口頚部の変化に応じて、さらに細かく分けられています。

古墳時代の須恵器は、器形の多くが葬祭共献に使われました。飛鳥、奈良、平安時代には日用品が大多数を占めるようになりました。

大阪の陶邑窯を中心に、須恵器の生産が始まった5世紀前半頃から中頃には高杯、ハソウ、器台、丸底広口壷など、一つ一つの形や組み合わせなどに百済や新羅の陶質土器と共通する点が多く見られます。中には陶質土器にはあって、その後の須恵器には全く作られなくなった特殊なものもあって、半島との密接な関係を思わせるものがあります。

生産地が拡散し、各地で須恵器の生産が行われるようになった5世紀後半から6世紀の初めにかけて、半島の影響から脱し、日本化が進み、提瓶、長頚壷、三足壷など日本独特の器形が作りだされました。

6世紀初頭、各地に群集墳があらわれます。群集墳というのは、4~5世紀の古墳のように地域集団の首長やそれをとりまく僅かな有力者のための巨大な墳墓ではなく、世帯共同体の家父長層、いわば新しい時代の指導者たちとその家族を葬った規模の小さな墳墓の集合体です。

群集墳が盛んに作られるようになって、その副葬品としての要望に応じて、例えば高杯の足の部分やハソウの口頚部が発達し、実用品としての機能より、葬祭共献用の儀器としての装飾的な傾向が著しくなりました。一方、須恵器の需要の増大は、生産地の増加と大量生産の傾向となってあらわれました。

大量生産と粗製濫造は、いつの時代も表裏一体にあるようで、初期のものと比較すると、全体に形は崩れ、稜線や端部の仕上げが甘くなり、削りも粗雑になりました。

7世紀前半に、須恵器はもう一度変化を見せました。ここで歴史は、飛鳥王朝の成立、仏教伝来など、新しい時代に突入したのです。

仏教の普及に伴って葬送の姿は一変し、群衆墳は衰退し、共献用の須恵器はほとんど消滅しました。代わって登場するのは盤、皿、杯、碗、瓶など食卓用の器種で、都をはじめ地方の官庁、寺院などの需要が急激に増加しました。このほか、仏教に関連した鉄鉢形の容器や浄瓶、水瓶、それに陶硯などがあらわれ、新しい時代の到来を反映しています。

 

須恵器生産の技術は、5世紀の中頃大和・河内に確立した王権によって朝鮮半島南部地域から泉北丘陵の陶邑にもたらされ、渡来工人たちによって創業されたと考えられています。発足当初、製品は陶邑から各地に搬出されていましたが、新しい丈夫な焼き物は多くの人を魅了したことでしょう。その技術はたちまちの内に、地方豪族の手を経て、吉備地方から北九州へ、さらには南九州、東海、関東、東北地方まで広がりました。

奈良時代には岩手県から鹿児島県に至るまでの各地で、地方官庁や寺院などの需要に応じて生産される一方、和泉、尾張、美濃、備前など良質の陶土に恵まれた地域では地場産業として国家管理の下に置かれ、製品は中央官庁に納めることが義務付けられていました。

平安時代の中頃に編まれた「延喜式」によると、摂津、和泉、近江、美濃、播磨、備前、讃岐、筑前の8ヶ国は須恵器を朝貢することが定められていて、これは奈良時代にさかのぼって実施されていたと考えられます。

古墳時代から奈良時代にかけて陶邑は、須恵器生産の中心地でしたが、奈良時代になると尾張の猿投窯が生産を高めました。そしてここでは平安時代になると、窯焚きの技術改良が進んで、灰釉陶器が作られるようになりました。灰釉陶器の生産は、官営の工房で行われ、全国的に製品を供給して、発展を続けることになりました。その頃泉北丘陵の陶邑では、和泉と河内の間で薪の所有権を巡る争いがあるなど、経営上の行き詰まり現象が表面化して、やがて衰微してゆくことになりました。

その後の須恵器生産は、能登半島の珠洲、岡山の亀山などのごく一部の生産地に残り、他は廃れてしまいました。

 

碗貸し説話

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

茨城県常陸太田市美里町

茨城県日立市

茨城県日立市

茨城県日立市2

茨城県日立市2

茨城県日立市3

茨城県日立市3

茨城県日立市4

茨城県日立市4

茨城県日立市5

茨城県日立市5

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市3

栃木県黒磯市3

栃木県市貝町

栃木県市貝町

栃木県那須市

栃木県那須市

栃木県那須市2

栃木県那須市2

栃木県那須那珂川町

栃木県那須那珂川町

栃木県宇都宮市

栃木県宇都宮市

栃木県益子町

栃木県益子町

群馬県渋川市

群馬県渋川市

群馬県水上町

群馬県水上町

群馬県水上町2

群馬県水上町2

群馬県前橋市

群馬県前橋市

群馬県前橋市2

群馬県前橋市2

群馬県前橋市3

群馬県前橋市3

埼玉県嵐山町

埼玉県嵐山町

群馬県某所

群馬県某所

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市2

埼玉県東松山市2

埼玉県浦和市

埼玉県浦和市

群馬県岩槻市

群馬県岩槻市

埼玉県岩槻市2

埼玉県岩槻市2

埼玉県長瀞町

埼玉県長瀞町

東京都某所

東京都某所

東京都某所2

東京都某所2

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市2

神奈川県小田原市2

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市2

神奈川県横浜市2

bottom of page