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華道               1984年8月号 華道家元池坊

 

Ⅰ 食器について

食事のたびに食卓の上にはいろいろな食器が並びます。ご飯茶碗、吸物椀、大皿、小皿、コップや盃等々。食卓の上に登場してくる食器の種類や数は、その日の献立によってさまざまに変化し増減します。日本の家庭で日常使われる食器の種類や数などの賑やかさは、世界に類を見ない程豊富です。

 これら種々雑多な食器群の中で、一般にどの家庭でも、ご飯茶碗と箸、それに湯呑茶碗については、お父さんのもの、お母さんのもの、或いは家族一人一人にちゃんと専用のものが決められているのが普通です。汁物椀やお菜皿までも決められている家庭だってあるかもしれません。そしてこの個人専用の区別は、たとえ夫婦や親子の間でも取り替えたり取り違えたりすることは殆どないと言ってよいでしょう。

 町のせとものやさんの店内は、一見雑然としているようでも、大ぶりで染付けの茶碗は男性用、小ぶりで赤絵のものは女性用、あるいは湯呑茶碗も箸も性別や年齢層をかなりはっきりと考えて、区別して並べられてあるのが普通です。そして私たちは、それに何の不自然さも感じないで、必要に応じてその中から最も適当なものを選んで求めてくるのです。お祝いの贈り物などに、茶碗や箸など夫婦セットが盛んに利用されています。

 このように日常生活の中で、毎日使われている食器の一部が、家庭の中で、年齢や性別で区別され、しかも個人専用のものがあるなどといったルールは、日本独特の風習です。

 たとえばヨーロッパの家庭で、お皿やスプーン、フォークなどに男女の区別があったり、個人専用のものが使われているということはないでしょう。

 どういうわけで日本にだけこのような不思議な習慣があるのでしょう。

 昔から日本には、一つの食卓を囲んで食事をする習慣はありませんでした。絵巻物などに描かれた食事の様子を見ると、一人ずつの前に折敷、懸盤、台盤などと呼ばれる一種の銘々膳が置かれ、この上に料理を盛った皿や小鉢類が並べてあります。ヨーロッパの絵画に見られる食事風景とは、ずいぶん違います。大勢の人たちが、一つの食卓を囲んでいます。食卓の上には、料理を盛り上げた大皿や鉢があって各自が思い思いに分けあって食べています。

 日本の食事は、料理とそれを盛る小鉢や皿そしてこれら食器類をのせる膳をあらかじめ台所でととのえて、一人一人の前に並べる形式だったのです。

 この銘々膳の習慣は、やがて江戸時代になって庶民の間で、箱膳と呼ばれるものに変化しました。蓋をひっくり返して箱の上におくとお膳になり、箱の中から茶碗や汁椀、小皿、箸などをとり出して食事をします。食後は各自が食器に湯茶をそそいでフキンで拭って再び箱の中にしまっておきます。箱の中の食器を洗うのは、月に二度か三度だったようです。こうなると食器はもちろん、箱膳も個人専用のものになってきます。食器は毎日洗わなくても自分以外の者が使うことはありませんから、それほど不潔感は持っていなかったようです。逆に言えば、自分のものでない食器を使うことや、自分の食器を他の者に使われることに対しては、かなり強く不快感や嫌悪感を持つようになるのは必然です。

 今では、銘々膳は、正月とか仏事など特別な日に使う家庭がわずかに残っている他は、料理屋での宴会などに出てくる程度で、一般の日常生活では、殆どの家庭が、大きなテーブルを囲んでの食事という形になっています。

 テーブルを囲んでの食事形式は、平安時代の宮廷で僅かにその例がありますが、これは一般には普及しませんでした。江戸時代になって中国から長崎に卓袱料理と呼ばれる形式が伝えられました。卓袱というのは食卓という意味です。大きな食卓を囲んで、盛られた料理を各自が自由にとり分けて食べる形式のものです。食事は銘々膳と決まっていた当時の人々には常識はずれの斬新なものに思えたようで、たちまちのうちに各地に伝えられ、流行しました。高知県の「さわち料理」もこの流れをくむものの一つです。

 十八世紀の終わり頃、橘南谿という医者が、前後合わせて五年間、日本中を旅行して、「東・西遊記」という紀行文を書きました。この中に長崎で見聞した卓袱料理についての記述があります。

『近きころ上方にも唐めきたる事を好み弄ぶ人、卓袱食という料りをして、一つの器に飲食をもりて、主客数人みずからの箸をつけて、遠慮なく食する事なり、誠に隔意なく打和し、奔走給仕の煩わしき事もなく簡約にて酒も献酬のむつかしき事なく各盞にひかえて、心任せにのみ食うこと、風流の宴会にて面白き事なり。寺院にも黄檗宗などの寺には不茶とて精進ながら卓子料理することなり。是日本にてはめずらしきことに思いて,至って心易き朋友中ならでは行いがたき事なるに、唐土にては世間常のことなりとぞ。それゆえに長崎に来たれる唐人、日本の常々貧家といえども膳椀みな別々にひかえて、おのれが箸にては香の物一つもとらざるを見て大いに感心し、「扨も日本は礼儀正しき国なり。家内のしたしき中にてさえ、日夜飲食の事にかくのごとく礼をみださず、貧家といえども膳椀を別々に備えたるは唐土などにては思いもよらざる事」といえるとぞ。誠に是を聞いては、日本の風儀正しきをよろこぶべき事なり。礼儀正しき中にて、たまたま上方のごとく、卓子料理も打和してよけれども、此事常に成りてはいとみだりがわしき事なるべし。唐人の感心するも尤もの事なり。』(東洋文庫249)

明治になってヨーロッパから牛肉を食べる風習が伝わり、さまざまな料理が工夫されました。牛鍋やスキヤキなど鍋料理もその一つです。鍋料理の楽しさは、煮え加減をたしかめながら、めいめいが直箸で鍋の中をつつきまわすことによって、一同の仲間意識がふくらむところにあると言えましょう。鍋料理の発生以来、これが大好きになった日本人は、豊富な四季折々の魚介類や野菜類をさまざまに利用して、多種多様に発展させ、今では各家庭に一つや二つは得意な鍋料理を持っているといえる程に日常の食生活の中に深く定着するまでになりました。橘南谿さんが見たら「みだりがわしき事」と眉をよせるかもしれません。

が、私の家の幼い子供たちも、特別に教え込んだわけではありませんが、それぞれに個人専用の茶碗と箸だけは持っていて、それを当然のことのように思っているようです。

この習慣だけは、まだ当分の間なくなってしまう気配はないようです。

 

 

華道               1984年9月号 華道家元池坊

Ⅱ タイムカプセル

平安時代から鎌倉、室町時代にかけて、瀬戸、常滑、渥美半島で作られたと推定されるやきものの中に経筒、経筒外容器、経塚壷などと呼ばれる遺品があります。日本各地から出土したもので、無釉のもの、釉薬の施されているもの、美しい牡丹唐草などが線彫りで施されていたり、印を押した文様のもの、単純な線文様のもの、或いは、年号や人名、製作の目的などが記されているものなどがあります。いずれも信仰のために心をこめて作られたもので、端正で大変美しく、昔から数寄者たちに茶室や客間などの花入れなどとして珍重されてきたようです。また年号や人名などが記されていることなどもあって、陶磁史の研究の上では特に大切な意味があり、重要文化財などに指定されているものも珍しくはありません。

これら経筒や外容器などの製作が盛んになりはじめたのは、十一世紀の中ごろ、平安時代の宮廷貴族・藤原氏の全盛期がすぎ、漸くその政権にかげりがみえはじめた頃です。

ちょうどその頃、宮廷を中心に末法思想が流行していました。末法思想というのは、釈迦の入滅後、時間がすぎるにつれて仏教の教えが徐々に衰えてゆき、ついには亡んでしまうという一種の運命的な歴史観に基づく予言的な思想です。正・像・末の三時説という考え方があり、これは釈迦の滅後千年間(五百年とする説もある)を正法の時代と呼びこの間、仏教の教えは正しく完全に伝わっていて、教えに従って修行をすれば誰でも証を得ることが可能な時代であるとします。

次の千年を像法の時代と言い、仏の教えは完全な形で残っているが、修行をしても証を得ることができない時代、そしてその次に来るのが末法の時代で、教えだけはあるが、修行する人もなく、証を得る人もいない、そして遂には仏教が全く滅んでしまうというものです。この末法は万年、つまり永遠につづくというものです。末法の時代がいつからはじまるか、釈迦の入滅がいつであったかについては、いくつかの説がありますが、わが国の平安時代の仏教では、末法到来を、永承七年(西暦一〇五二年)としていました。

ちょうどその頃、日本の歴史は一つの転換期を迎えていました。

平安遷都以来、およそ二五〇年、古代律令制度は崩れ、貴族たちは、習慣や前例ばかりを重視して政治に対する積極的な意欲と責任感を失いかけていました。都の内外では,比叡山の山法師、興福寺の奈良法師たちが、わがまま勝手なふるまいをし、政治に圧力をかけ、勢力争いに明け暮れし、寺院を焼くなど乱暴を働き、地方でも治安は乱れ、東北地方には反乱が起こり(前九年・後三年の役)長い戦乱の時代に突入します。「袴垂」と名のる盗賊が横行し、民衆を不安におびえさせたのもちょうどこの頃です。

関東地方や九州地方には、次の時代の政権をつかむ地方武士の台頭がはじまり、貴族政治が亡びていくきざしが見えてくる時代です。

このような社会状況の中で、宮廷の貴族たちは、政治の堕落、破綻は、末法到来によるものと考えていたようで、これは彼らにとってかなり深刻な問題だったのです。当時の記録や日記類は、いっせいに末法到来について記しています。

仏教は、わが国に伝わって以来、国家の体制を固めるための貴族・官僚のモラルとして使われたり、鎮護国家や疫病平癒・戦勝祈願など、現世利益の信仰の対象となったり、哲学・学問として発展するなどさまざまに変遷してきましたが、この当時の貴族たちにとって、仏教の現世利益と来世往生をたのむ極めて私的なものというように理解されていました。

目前に迫った末法到来によって、仏教の救済から見放されることは必然です。恐怖と絶望しかない人々を救うには、これまでの南都北嶺の仏教とは別に、新しいスタイルの信仰が是非必要になりました。このために新しく唱えられるようになったものに、阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生したいとする浄土信仰(法住寺・法界寺・平等院など)、霊験所を巡礼する観音信仰(西国三十三ヶ所・四国八十八ヶ所巡礼など)、弥勒の出現に期待をかける弥勒信仰などがあります。

弥勒菩薩は、釈迦の予言によって釈迦の入滅後五十六億七千万年の後、如来となって人間界に出現し、その間に救われなかった多くの衆生に法を説いて救うため、今、兜卒天という浄土で修行の最中であると信じられているのです。弥勒信仰は、末法の時代に生まれてきてしまったため、釈迦の救済からはもれてしまい、一時は地獄に堕ちてしまうかもしれないけれど、たとえ五十六億七千万年の後でも、必ず如来となって出現する弥勒さんを待って救われたいと願う、じつに気の長い信仰です。弥勒如来に救ってもらうためには、ただ待つだけではなく、それなりの功徳を積んでおかなければなりません。それには、法華経を写経して、これをタイムカプセルの中に入れ、地中に埋めておくのです。こうしておけば、やがて弥勒如来が出現したときに、これを見つけてくれて、もしそのとき自分が地獄の責苦に堕ちていたとしても、きっと写経の功徳に免じて救ってもらえるに違いないというのです。一字一字精魂かたむけて写経し、美しく飾った筒に収め、さらに壷に入れてしっかりと蓋をして地中に埋め、盛り土をして塚を築いたのです。これを埋経といい、この塚を経塚と言います。塚の中の写経は、必ず弥勒如来に見つけてもらわなければならないものなのです。

埋経は、中国で九世紀中頃、仏教が弾圧され衰微したときに、仏教の復活を信じていた熱心な僧侶たちによって行われたことがあります。わが国では、末法到来の十一・二世紀頃、比叡山の僧によってはじめられ、この指導によって流行したのです。

藤原道長が、吉野の金峯山に経塚を営み、たくさんの写経を納めたのは有名です。その後、この風習は各地に伝わり、東北地方から九州地方まで、たくさんの経塚が営まれました。

経筒、外容器、経塚壷などは、このタイムカプセルなのです。五十六億七千万年の後、弥勒如来に見つけてもらうために埋めたものなのです。僅か千年余りで、掘り出されてしまっては困るのです。たとえ研究のためだと言っても、末法到来を悲壮な思いで迎え、命がけで写経をし、塚を築いた当の本人にしてみれば、今、その容器や経巻が、博物館で一般に公開されているなどということを、もし知ったら、どんなにガッカリするだろうなと思いませんか。

 

 

華道               1984年10月号 華道家元池坊

 Ⅲ やきものを運ぶ

十数年以前、まだマイカーを持つことができなかった頃、展覧会に出品するためのやや大きめの作品や、小さくても数のたくさんあるときなど、これを抱えて電車に乗り継いで運ぶのは一仕事でした。また、運ぶ途中でうっかり壊してしまうことのないようにていねいに梱包しておくこともやっかいな仕事の一つです。

前回の経塚壷の原稿を書くために、古陶磁の写真集を眺めていて、フト、岩手県出土・常滑産の大壷というのがあるのに目がとまりました。改めて手許にある古代・中世の陶磁集を繰って、一つずつ産地と出土地を確かめてみたところ、神奈川県・千葉県・茨城県・岩手県で出土しているものの内、かなりの数のものが、瀬戸・美濃・常滑・渥美産のものであることを知りました。

やきもののように重くて、壊れやすくてもち運びのしにくいものが、交通の充分発達していなかった当時、数百キロも離れた所へ運ばれていた事実には、いささか驚きを感じました。海や河川で舟の利用できるところでは、大きな荷物でも舟に積んでしまえば目的の港に着くまでは特に問題はないでしょう。瀬戸内海や琵琶湖が、昔から物資輸送の通路として利用され、沿岸各地が港町として栄枯盛衰を繰り返した歴史はよく知られているとおりです。ところが水運の利用できないところでは、牛馬を利用するか、人がかついて運ぶしか方法はないわけで、わが国のように平地の少ない陸地の運搬には、ずいぶん難渋したことだろうと思います。

「延喜式」(平安時代の初期に編集され、当時の律令政治を施行する際の細則を定めたもの)には、政府が全国民に租税や調貢品として課した食料品・衣類・日用品雑貨その他さまざまな物品の詳しい内容や数量が記されています。やきものも重要な調貢品の一つでした。延喜式に記載されている正税または、調貢品としてのやきものの種類とその数量は厖大なものです。その内訳は、大小の甕類・壷や瓶類をはじめ盤・鉢・坏・碗・灯明皿・硯・竈や甑の類等々数十種類に及びます。

陶器(すえのうつわ=無釉の須恵器)を調として都に納めることになっていたのは、大和・河内・摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前(筑前は大宰府に納める)の十カ国で、尾張と長門は瓷器(しのうつわ=施釉陶器)を正税として納めることになっていました。

また、延喜式には「蘇」という食品を貢納させる記述があります。「蘇」は牛乳を煮つめて作るコンデンスミルクのようなもので、奈良時代から平安時代初期の宮廷の貴族たちが好んで食べたものです。(わが国の古代人が乳製品を食べていたのは意外なようですが、食物史ではよく知られていることです。)蘇は大小(大は三升入り・小は一升入り)の壷に入れることになっていて、これがほぼ全国各地から都へ毎年百壷ばかり集められていたのです。空っぽの壷ではなく、中に物の入った壷の運搬は、一層大変だったろうと思います。このように古代律令制の時代からやきものは、消費物資の一つとして、或いは何らかの容器として、各地方から都へ、或いは産地から消費地へと頻繁に運び続けられていたのです。

壷を運んでいるようすを、絵巻物の中にいくつか見ることができます。

「伴大納言絵詞」十二世紀中頃に描かれたものと推定される上・中・下三巻の絵巻物で、内裏の応天門炎上を画いたものです。天皇・公卿や女房たち・武士・舎人・町の人々などがそれぞれの場面でダイナミックに描かれているすばらしい絵巻です。町の雑踏の中に大壷をかついだままで騒ぎを眺めて立っている男が一人描かれています。余程重いのか壷の底に杖を立てて支えにしています。

「粉河寺縁起」西国霊場の第三番目の札所として知られている和歌山県の粉河寺の開山の経緯を画いた鎌倉時代の作品です。河内の長者が娘をつれて粉河の草庵を訪ねるべく今まさに出発しようとしている場面です。食べ物を入れた唐櫃の上に高杯をおき、前後に酒の瓶を振り分けてかつぐ従者の一人が描かれています。

「鳥獣戯画」鳥羽僧正の筆と伝えられる有名なもので、特にストーリーはないでしょうが、多くの動物たちが生き生きと描かれている楽しい絵巻です。酒宴の準備のためか、蛙と兎が大きな甕をかついでいます。甕を吊るための台枠のようなものが使われています。この頃には大きな壷や甕を運ぶためにこのような道具が普通に見られたのだろうと思われます。

偶然でしょうが、三つの場面ともそれぞれ異なった方法で壷や甕を運んでいるようすが描かれています。この他にも、馬の背にくくりつけたり、籠や櫃に入れたものをかついだり、碗や杯など小さなものは、俵やかますに包むなどして運んだのだろうと思います。

落とせば簡単にこわれてしまうやきものの運搬は、実はとてもやっかいなことに違いありません。ところが、人々は昔からいろいろな工夫を重ねて東へ西へと、私達の想像をはるかに越えて大量の陶磁器を運びつづけてきたのです。

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