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読書感想文集 巻頭言            1990年7月    銅駝美術工芸高校

 

一期の境ここなり

 室町時代の初期、能楽を大成した世阿弥の著書のひとつに「風姿花伝」と呼ばれるものがあります。これは、能楽の芸を習得するための練習方法などを説いた一子相伝の秘伝書で、わが国最初の演劇論としても高く評価されているものです。

 この書物は、全体が「年来稽古条々」「物学条々」「問答条々」など七編から成っています。

 「年来稽古条々」は、年齢別練習法ともいえるもので、七歳のころから能楽師として訓練を始め、十二・三歳、十七・八歳、二十四・五歳、三十四・五歳、四十四・五歳を経て五十有余で芸が完成するまでの年齢に応じた稽古の基本が説かれています。

 私は、高校三年生のとき、古文の授業で風姿花伝の「年来稽古条々」を習いました。そして学級担任でもあった古文の先生が、私たちの卒業アルバムに、十七・八歳頃の練習法の一部、「心中に願力を起こし、一期の境ここなりと、生涯かけて能を捨てぬ外は稽古あるべからず」と揮毫してくれました。

 文章はこの後に「ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」と続きます。

 「心に願を立て、力を奮い起こして一生の浮沈の分かれ目は今なのだと覚悟して、生涯をこの時期にかけて、能にかじりついている以外は稽古のやりようがないのだ。ここで努力を放棄してしまっては、そのまま能の上達は止まってしまうだろう」と言うほどの意味だと思います。

 その後、私はやきものづくりを始めました。途中、何度もスランプを経験しました。他の仕事を羨ましく思ったこともありました。やきものづくりがいやでたまらず、いっそ止めてしまおうかと思ったことも幾度もありました。その都度、私の脳裏に右の「一期の境ここなりと・・・」が去来し、やきもの作りにしがみつく思いで三十年余りがすぎました。

 世阿弥の説く「まことの花」が咲くはずの五十歳台に達した今でも、私にとって「花」は程遠くにあり、「生涯かけて、捨てぬ外稽古あるべからず」と自分に言い聞かせながら、寸暇を惜しんでやきもの作りに励んでいます。

 

 

 

文明の生態史観              1991年7月    銅駝美術工芸高校

 国立民族学博物館の館長梅棹忠夫さんの「文明の生態史観」は、世界を一挙に丸呑みしてしまうようなたいへん雄大な論文です。

 梅棹さんは、もともと動物学が専門で、若い頃から動物の生態を研究するため、モンゴルをはじめ世界各地の探検を何度もしておられます。

 一九五五年、京都大学が戦後初めて海外に派遣したカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の一員として参加し,各地に住む人々の生活のようすを調査したことがきっかけとなって、比較文明学の分野に足を踏み入れることになりました。

 この論文では、まずユーラシア大陸を大きな横長の楕円にみたてます。この楕円の東と西の両端に近いところで垂直線を引き、その外側を第一地域と名づけます。東側が日本で西側は西ヨーロッパの国々です。

 両端の第一地域を除いた残りを第二地域とします。第二地域の東北から西南に向けて真ん中を斜めに巨大な乾燥地帯があり、それに接して森林ステップまたはサバンナがあります。

 古代文明は、この乾燥地帯の中か、その周縁に沿うサバンナを本拠に成立すると言うのです。中国、インド、ロシア、地中海、イスラムの文明などがそれです。そしてそれぞれの地域と文明世界の盛衰を比較するのです。

 私は、十数年前にはじめてこれを読んだときの驚きを忘れることができません。

 無限に広がる地面を二本の足でトコトコと歩きまわっている梅棹さんの眼は,ちょうどズームレンズのようにあるときは接写レンズであり、またある時は望遠レンズや広角レンズに、そしてちょうど宇宙船から地球全体を眺めているようなことだってあるのです。

 人は、ともすれば目前のことばかりに気をとられ、一歩先のことにも思いが及ばないことがあります。日々おこる身のまわりのいろいろなできごとにていねいに対応し、誠実にとりくみながらも、いつも全体を視野に入れ、自分の位置を確かめ、今、なにをすべきか、どの方向に進むべきかを示唆してくれる思いがするのです。

 思い込みを捨てて見たままを純粋な眼で観察することで新しい発見ができることも教えてくれます。

 だれにでも読める平易な文章で書かれた比較的短いもので、是非一読を勧めたい一書です。

 

 

 

情報産業論                  1993年7月    銅駝美術工芸高校

 今、世間で情報化社会、情報産業、情報公開等々「情報」がさかんに使われています。この言葉が一般に使われるきっかけをつくったのは、梅棹忠夫さんです。

 梅棹忠夫さんは、自らつくり、育てた国立民族学博物館の館長を一九九三年三月に定年で退官されました。

 この文集の第三号に、私は梅棹忠夫さんの「文明の生態史観」を紹介する小文を書きました。

 梅棹さんには、もう一つ極めて重要な論文があります。一九六三年に発表された「情報産業論」です。

 一九六〇年代は、「所得倍増」をスローガンに日本は総力を挙げて工業の発展に邁進している最中で、消費、レジャーブームが飛躍的に進展しつつある時代でした。

 梅棹さんは、この頃世界で初めて「工業社会の次に情報社会が到来する」ことを発表したのです。

 この論文では、まず「情報業」の定義から入ります。新聞、放送、出版等々のマスコミをはじめ、競馬、競輪の予想屋、産業スパイ、さらには教育や宗教、映画、芝居、見世物の類、あるいはその先駆的存在として占星術者、陰陽師や中国の春秋時代に活躍した諸子百家たちまでが含まれると言います。そして、「情報」が商品として扱える産業として成立するものであることを説明した後、その必然性を、人類の産業史を三つの段階に分けて説いています。

 第一段階は農業の時代、第二段階は工業の時代、そして第三に情報産業の時代が到来すると言うのです。

 この三つの段階を動物学の胚発生になぞらえて説明しているくだりは、とても鮮やかで、思わず引きずり込まれます。

 『農業の時代に生産されるものは、食料で、消化器官にかかわるものである。発生学的概念を適用すれば、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能の充実の時代であり、これを内胚葉産業時代と呼び、第二の工業時代に生産されるものは、生活物資とエネルギーで、人間の手足の労働の代行であり、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の充実で、この時代を中胚葉産業時代と呼ぶことにします。そして最後にくるのが、外胚葉産業時代で、それは脳神経系であり、感覚器官の機能の拡充を目的とした産業の時代である。』と説明しています。

 また、『工業の時代に成立した経済学は当然変化せざるを得ないことになるだろうし、私たちの生活水準の目安となっているエンゲル係数というものの意味も変わってしまうだろう。』と、そして『「情報の価格」は、提供者と受け取り手の社会的、経済的な格付けによって決まるお布施の原理が適用される。』と言う説明は、意表をつかれる思いがしつつも、まんまと納得させられます。

 この論文が発表された当時、世間では、必ずしも正当にこれを評価したとは言えませんが、梅棹さんの予見は見事に的中し、三〇年余りを経過した今読んでみると、確固とした文明史観に基づいた正確な先見性に舌を巻く思いがするのです。

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