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やきものを見る目を育てよう

 

○鑑賞する力

・眺めているうちにきっかけをつかむ

絵や彫刻などの芸術作品を鑑賞するにさいして、よく「見る目を育てる」ということが言われます。なぜ「見る目を育てる」必要があるのでしょう。

私たちは「雨上がりに虹が出た」「西の空が夕焼けで真っ赤になっていた」というような景色を見て感動します。「虹が出ている。ああ、きれいだなあ」と誰もが思います。あるいは山一面に桜が咲いたり、紅葉になったりというとき、わざわざ出かけて行き、花見をしたり、紅葉を見て、「きれいだ」とか「すばらしい」と満足します。

これらの例は、自然の美しさを見ることで感動するのですが、同じ次元で、人の作ったものを見て感動することがあります。自然現象だったら、わざわざ花見や紅葉狩りに出かけて行ったり、山や海、川や渓谷を見たりというように、私たちは自然の造形を積極的に見に行こうという姿勢があります。しかもその美しさに感動し、満足して、ちょっと大げさな言い方をすると「ああ、生きていてよかった」という充実感を味わうでしょう。

自然物ばかりでなくて、人のつくったもの、たとえば城や寺や庭園、場合によっては手元にある小さな花瓶でもいいし、壁にかかっている一枚の絵でもいいのです。そういうものを見て 感動することがあります。「ああ、見てよかった」とか「自分のものにしてよかった」という充実感が、結局は「生きていてよかった」とう生きがいにつながるのではないでしょうか。

ものを見て喜ぶ、鑑賞するということはそういうことではないでしょうか。生きていることの証、生きているという充実感につながることだろうと思うのです。

少し視点を変えてみます。たとえば私たちは毎日三度ずつご飯を食べます。それは単にお腹をふくらませるだけが目的ではなく「おいしいものが食べたい」と思います。ただお腹がふくれて生きてさえいればいいというのではなく、それだけでは満足できず、やはり「おいしいものを食べて、充実した気持ちになりたい」のではないでしょうか。五感に満足を与えるということが生きがいなのではないでしょうか。

「食べるものも、見るものも、外から入ってくるあらゆる刺激に、できることなら満足したい」というのが人間の基本的な欲求ではないかと思います。感性とはそういうものでしょう。「感性が鋭いか、鈍いかによって、その人の生涯が幸福か、幸福でないかが決まる」とさえ言えるのではないでしょうか。感性が鋭ければ鋭いほど、さまざまなものに対してそれぞれの反応ができるのです。生きていることの充実感がわくのでいますす。私は、ものを鑑賞するには、感性が大切だと思っています。

ただ命がつながっているだけで満足するのだったら、ものを鑑賞する必要はありません。その日その日、一分一秒、充実した生活をするために、ものを見て楽しむ、さわって楽しむ、味わって楽しむ、聞いて楽しむということが人生には必要だと思うのです。

最初の例ですが、虹を見て、あるいは紅葉を見て、だれもが共通して「美しいなあ」と感じるでしょう。そういうものを見て嫌悪感を覚える人はおそらくいないでしょう。

しかし、庭で虫が鳴いているのを聞いて、どう感じるでしょう。「ああ、秋になったのだ。いい音色だな」と思う人がいる一方、これが雑音としか聞こえない人たちもいるのです。それはいったい何故なのでしょうか。何を見たときに「美しい」と感じ、何を聞いたときに「美しい」と思うかは、自分で気づかないうちに、どこかで教えられて、刷りこまれているのではないかという気がします。

同じやきものを見て、多くの人が「美しい」「すばらしい」と思っても、ある人にはなんのことだか、さっぱり興味も関心も感動もわかない。このような例は、ほかにもたくさんあると思います。感動を覚えない人は、これまでに感性を高める教育というか、刷りこみがなされなかったからではないでしょうか。

もし、そうだったら、外から刷りこまれなくても、自分で刷りこんで見たらどうでしょう。そのためには積極的に勉強することが大切です。美学の本を読んでいると、どれにも「素直な目で見ること」と異口同音に書いてあります。「素直に見れば、美しさは自ずとわかる」とかいてあります。わたしは「少しちがう」と思います。素直に見たって、わからないものは絶対にわかりません。とりつくきっかけを誰かに教えてもらうことが大切なのです。

それでは、いちばん手っ取り早い方法は積極的にたくさん見ることです。極端なことをいうと自分のものにすることです。「自分のものにする」とは買うことです。お金がかかることですから、誰にでもできることではありませんが、手元に置いて毎日眺めていると好きになります。わからなくても、だんだん好きになります。

たとえば、ものづくりの師匠と弟子の関係で、弟子の作品は師匠の作品によく似るのです。弟子は師匠の作品を、毎日見ているから、美しいものの基準がそこにあってしまうのです。だから似るのです。自分のものにしてしまうとか、自分のいちばん身近にあるものが、いちばん好きになるのです。 

だから、やきものの見方がわからない人は、やきものの中に飛び込んでいって、自分のものにするか、あるいは美術館でも博物館でもいいから積極的に通って、わからないならわからないなりに毎日眺める、機会あるごとに眺めるという姿勢が最も手っ取り早い方法です。

美術館に行くと、やきものがずらりと並んでいます。それをざっと見て終わりにしてしまうと、興味をもつことにはなりません。しかし、それでもあちこち訪れていると、どこかに引っかかるはずです。たとえば、ある博物館に、縄文土器から近・現代の陶磁器まで、並んでいたとします。そこで偶然にでも、「有田焼は江戸時代のはじめに、こういういきさつでできたのです。これが日本で最初の磁器だったのです」などと聞くと、次に行ったときにかならず有田焼の前で立ち止まってしまいます。「前に来たときに、こんな話を聞いたなあ」と思い出しながら有田焼に目が止まることになります。そのような経験が大切です。

何かにまつわる話を聞くこと、ちょっとしたきっかけでもいいのです。そうすると、今まで知らずに通り過ごしていたのに、「ちょっと眺めてみようか」いうことで近づくことになります。そんな第一歩が非常に大切なのです。

 

・京焼のおもしろさに気づかされる

 作家の秦恒平さんに「おもしろや京焼」というエッセイがあります。エッセイの内容は次のようなものです。

  京都という文化都市で、みんなが共通した文化の基盤をもっているなかで、京焼というやきものをつくる職人が、使い手のことを考えて、「楽しませてやろう。使うときに、ああ楽しいなと思うようなやきものをつくろう」ということを、まず企む。

  つくり手も楽しんでいるし、できたものを使う使い手も、作り手の気持ちを斟酌して楽しんでいる。つくり手が楽しんで、使い手も楽しんで、とてもすばらしい世界がある。たとえば、花活けを楽器の笙の形にしよう、武具の箙にしよう、結んだ水引の形にしよう、『徒然草』の冊子を三冊重ねたようなものにしようかと考える。「こんどはどういういたずら心で、使い手をびっくりさせてやろうかな」などと考えながら、つくり手が楽しんでつくったものを、使い手が楽しんで使っている。都の文化が支えたそういうおもしろさが、京焼にはある。

そういわれて見ると、『なぜこんなものがおもしろいのか』と思っていた京焼が、突然、姿が変わって見えてくるのです。私は、そういうおもしろさを秦恒平さんから教わった気がするのです。私が、「ただなにも知らないで素直に見ればそれでいいというのはちがう」と言ったのはこういうことなのです。周辺の関連ある話も知っているほうがいいし、技術的なことはもちろんそうだし、エッセイを読んでみるとか、伝説を知っているということも全部ひっくるめて、たくさんの情報を集めれば集めるほど、そのものに近づくチャンスは多くなるでしょう。また、それが鑑賞のじゃまになるものではぜったいにないと思うのです。

 そして何回もくりかえしているうちに、自分なりに、興味があるものと、ないものとにふるい分けができるし、興味がないものも、何かのきっかけで「ああ、そういえばおもしろいね」ということで、どんどん自分に近づけることができるでしょう。そういうのを鑑賞する力というのでしょう。だから、待っていたら誰かが与えてくれるのではなくて、積極的に見ることと、積極的に情報を集めることが必要ではないかと思っているのです。

 

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