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    美術工芸専門教育の高等学校
  
       近代史に先駆けた一実例               江口 滉

 

 

 * 京都市立銅駝美術工芸高等学校
  京都市立銅駝美術工芸高等学校は、昨年(二〇〇〇年)七月一日に創立一二〇周年を迎え、記念式典と同窓会総会を開催しました。当日の夕刻より市内のホテルで開かれた同窓会懇親会には八〇〇人近い卒業生が集まり、大変盛会でした。
  幕末の儒学者、頼山陽が晩年居を構え「山紫水明」とその風景を称えた鴨川の畔、丸太町橋より少し南下したあたりにこの学校があります。
  今、全国に「美術に関する専門の教育課程」を設けている高等学校は、およそ三〇校ほどありますが、 これらの中でこの学校は、歴史が最も古く、生徒数、教員数、実習内容、施設・設備などいずれを見ても群を抜いて規模が大きく充実していると言えます。

 *銅駝美術工芸高等学校の生徒
  ある年、教育実習のためこの学校に配属された他府県出身の実習生の一人が、次のような感想を述べています。
 「私の学んでいた普通高校の生徒は,個人個人バラバラで、ともすれば自己中心的で無気力になりがちであったのに反し、本校の生徒は、目的意識がしっかりしているためか活き活きとした生徒が多いこと、また一つの物を創りあげるのにうまく協力しながら、それぞれが自主的に行動できる点で爆発的なパワーを持っていることに感動した。形破れの発想を持っている一方、羽目をはずしてしまう緩みすぎの欠点が見られるが、生徒たちの気持ちは純粋で、率直である。」
 この実習生は、自分の経験した高校生活とあまりにも様子の異なった学校を直接見て、戸惑いを感じつつもこの学校の生徒の気質をかなり的確にとらえていると思います。
  またある年の四月下旬頃のことです。「千葉県の中学校の教員です」と言って一人の先生が訪ねて来られました。修学旅行の引率で京都へ来られたのだそうです。「今日は、班別行動をさせたので、私は一人で生徒たちの立ち寄りそうな所を見て周りました。行く先々で、多くの修学旅行の生徒たちに会いましたが、一日中これらの生徒たちを見ていて大変疲れました。陽が傾き,旅館へ戻る途中、偶々この学校の近くを通りかかり、数人の高校生とすれ違ったとき、オヤッと思いました。そして校門から出てくる生徒たちを見てハッとしました。どの顔もどの顔もキラキラ輝いて見えたのです。今どき、こんなに美しく見える高校生がまだいたのだと言うことを知って、大変驚き、なんだか救われる思いがしました。このまま通りすぎようかとしばらく校門の前で迷って居たのですが、どうしても一言だけこの気持ちをこの学校の誰かに伝えたくて、突然で失礼とは思いましたが、お邪魔した次第です」と話されて戻って行かれました。
  この学校に入学するには、学力検査だけでなく、適性検査(鉛筆デッサンと着色写生)に合格しなければなりません。このため生徒の大部分は小学校、中学校のころから絵を描いたり、物を作ったりすることが大好きで、それなりにプライドを持っていて、将来はこれらの特技を活かした仕事に就きたいというかなりしっかりとした目的意識を持っていると言えます。一方、少数ながら、もともと美術や工芸にそれほど興味を持っていない生徒や、必ずしも得意ではない生徒も入学してくることがあります。
  例えば、中学校の頃までは、おとなし過ぎるなどの性格が因で、いじめの対象になった経験があったり、友人関係が巧くゆかなかったような内向的な生徒、気が弱くて「他人を押し退けても、のし上がってやろう」といった積極的な気持ちを持っていない生徒などの場合、親も中学校の先生も「普通高校へ進学させて、熾烈な受験競争に巻き込まれて挫折するよりも、楽しいムードの高校でのんびりと美術工芸に親しみながら将来の展望を開くことができれば、その方が幸せだろう」という願いとともに送り込まれて来るケースも、少なくないのです。
  もともと自分では美術や工芸にそれほど興味を持っているとは思っていなかった生徒が、三年後には見違えるほどの発展を示すこともあれば、反対に、本人は勿論、周囲の者も認めるほど得意だったはずなのに、この学校に入学して見ると、周りの友人たちが想像以上の力を持っていることを知って圧倒されてしまう場合もあるのです。
  この学校に入学して来る生徒たちの普通教科の学力は、中学校卒業時点では中の上以上に位置していますが、数学・英語については不得手な生徒の多いのが現状です。 ところで、この学校には昭和初期ころ京都府に提出した学事年報の写しが保存されていて、中に次の記述があります。
 ・ 学業の進否 「本校に入学する者は美術工芸の嗜好ある者多きを以て絵画、図案、彫刻,漆工等の実技に適さざる者少く、又国語,歴史の文学的趣味ある者は比較的之を能くすれども、数学・理科等の学科は之を能くする者少し。故に種々其授業法を研究し、生徒の入学初より特に此に留意し之を教授せしかば年々其偏長の弊を減ずるを認む」  何十年経過しても、同じ悩みを持っていることが判ります。

 * 創立以来の変遷
  この学校の歴史は、国内で起こった最後の戦争、西南戦争の翌年、一八七八(明治十一)年に大分県出身の南画家田能村直入が当時の京都府知事槙村正直に「起画学校書」を上書し、つづいて四条派の画家幸野楳嶺らが「画学校設立の建議書」を提出したのに始まります。
  幸野楳嶺は建議書の中で「画業は、諸々の技術の長であり国家にとっては極めて有益な業である」と述べ、「画業は風流洒落に弄ぶものではなく、絵画教育を行う学校を設立し、わが国の文化・産業に貢献する人材を育成しよう」と考えていました。
  学校の開設は、鹿鳴館時代の幕開けと同じく、一八八〇(明治十三)年で、京都御苑内の旧准后里御殿を仮の校舎として発足しました。学校開設に要する費用は、全て市民からの寄付によって賄われました。
  画学校開設以前、画家になるには、まず師匠に内弟子として入門し、長い年月弟子として修行を積むことが必要でした。弟子は、師匠と同じ描き方を学び、他の流派の描き方を学ぶことは許されることではありませんでした。画学校では特定の先生の指導だけを受けるのではなく、さまざまな先生について学ぶことができるようになりました。徒弟制度によらず、学校に通うことで画家になる道が開けたことは画期的なことであったと言えましょう。
  同年の八月、生徒募集要項を定めて志願者を募りました。
  生徒の定員は八〇名、入学年齢を十四歳以上又は下等小学校(四年制)卒業者とし、修業年限は三年間でした。
  創立以来およそ二〇年間は、校地の移転、校名の変更、学科の改変や修業年限、教育内容の点検や訂正など試行錯誤の時代が続きましたが、明治三〇年代になると、当時京都を中心に活躍していた谷口香嶠、菊池芳文、竹内栖鳳、山元春擧など若手の優秀な指導者が加わり、教育内容の最も充実した時代を迎えました。竹内栖鳳は従来の型にはまった手本主義に満足できず、個性的な写生を中心に指導し教育方針を一変させました。「師のマネをするな」と教え、生徒たちが自らの能力を発揮するのを援助し、これを更に伸ばすことに力点がおかれるようになったのです。
  一九〇一(明治三四)年、文部省令によって校名を「京都市立美術工芸学校」と改めました。この校名は、一九四八(昭和二十三)年の学校制度改革までの約五〇年間つづきました。
  画学校以来、京都の美術工芸学校が東京の美術学校と並んで話題になることがありますが、京都の美術工芸学校は中等学校として小学校卒業者を受け入れていたのに対して、東京の美術学校は中学校卒業者を対象とした専門学校であり、学齢の異なる両校を同等に比較するのは正しくないように思います。
  一九二〇(明治四十三)年、美工は上京区川端通荒神口上に新しく建設した校舎に移り、画学校以来初めて独自の校地と校舎を持つことができました。翌年には絵画専門学校(現・京都芸大)が創設され、両校が兄弟校として発展することになりました。
  一九二五(大正十五)年、両校は東山区今熊野日吉町の市立衛生試験上跡地に校舎を新築して移転しました。
  太平洋戦争を挟んで、一九四八(昭和二十三)年には旧来の学制に代って六・三・三・四制度が実施され美術工芸学校は市立美術高等学校となり、更に翌年には高校三原則に(男女共学・地域制・総合制)則り、新設された京都市立日吉ヶ丘高等学校の美術課程として併設されることになりました。
  この当時在職しておられた先生方の話しによると、世間からは「美工は無くなった」と言われ、どうにかして存続していることをアピールしなければならないと真剣な話し合いが繰り返されたそうです。その一環として戦時中一時途絶えていた生徒の作品展を再開し、同時に物故教職員の遺作展を開催する計画を立てました。当時京都市美術館は占領軍に接収されていましたので、丸物百貨店(現近鉄百貨店)の催し場を会場として第一回美術コース展を開催しました。
  一九五二(昭和二十七)年には美術専門学校は美術大学となりました。四〇数年間兄弟校として発展して来た両校は新制度の下でそれぞれが大学,高等学校となり、このまま同居をつづけることはお互いの教育に支障を来たすことから、日吉ヶ丘高校は、泉涌寺悲田院山に新校舎を建てて移転しました。
  六・三・三・四制度が施行された一九四八(昭和二十三)年に、大阪市立工芸高校と大分県立別府第二高校(後に緑ヶ丘高校と改称)に美術科が設置され、一九五〇(昭和二十五)年には東京都立駒場高校と愛知県立旭ヶ丘高校(旧愛知一中)にも設置されました。
  それまでは、京都の美術工芸学校が全国で唯一校、中等学校教育の中で美術の専門教育を行ってきていたのですが、戦後の新しい教育に相応しい教育課程を模索する中で設置されたものでした。その後、高校進学率の向上や生徒数の急増期を迎えて高等学校の新設が相次ぐ中で美術科の新設もつづきました。
  今、「全国美術高等学校協議会」という組織があります。全国の美術系高校が、毎年各校を持ちまわりの会場として教育研究会を行っているものです。一九九九(平成十一)年、この会が発足三〇周年を迎え、記念誌を編むに当たって、既に退職している私にも一文を求められ、思い出話を載せてもらいました。私はこの中で「この会が発足した当初、全国に十校に満たない数だった美術科設置校が一九八五年頃から各地に徐々に増えはじめてきました。多様な生徒のニーズに対応するためとは言え、施設も設備も不十分なまま、進路保障の見通しもなく設置だけを決めてしまう杜撰な教育委員会のやり方に驚きもし、時には怒りさえ覚えることもありました。新しくスタートした美術科を任された先生方にとって、それぞれの発足時には、何を頼りに、何処に目標をおき、何から手をつければ良いのか五里霧中、暗中模索のご苦労があったと思います。毎年新しく参加される先生方の熱心な態度にはいつも頭の下がる思いがしました」と記しました。
  同じ冊子の中で、ある先生は「当時、専門課程美術学科を持つ高校は全国で十三校あり、失念した学校が多くなったが強烈に印象に残っているのが京都日吉ヶ丘、大分別府緑丘、大阪市立工芸である。私にとっては数ある中の垂涎の的であった。何故なら、建学の精神と云うかよってきたるべきバックボーンの確たるものがあったからである」と述べておられます。
  昭和三〇年代になってわが国の工業や商業は飛躍的な発展を示し、高等学校における職業教育のあり方が問い直されることとなり、多くの府県で職業科の単独化が進み、総合制が崩れはじめました。このような中、京都市では一九六三(昭和三十八)年に洛陽、伏見、西京高校がともに普通科を分離して単独の専門高校として再出発することになりました。
  この頃から人々の間に高学歴志向が進んできていたのです。高等学校は、大学への通過点としての役割が課せられるようになってきたのです。
  中学校では、各高等学校の大学進学率によってランク付けをして、それぞれの高校へは、生徒の適性よりも偏差値によって輪切りにされた生徒たちを送り込むことが日常的になってきたのです。更に高校への進学数が増大するにつれて、この傾向に拍車がかかることになりました。
  この結果、高校卒業後すぐに就職を希望する生徒の多い職業課程には、目的意識の希薄な生徒が集中するようになりました。いわゆる不本意入学で、学校が荒れる原因の一つです。一つの学校で、このような多様な生徒を一緒に収容することは、教育効果を高める上でも、学校運営面でも困難です。職業科の単独化にはこのような側面もあったと考えられます。
  この時、日吉ヶ丘の美術科は独立のチャンスを逸してしまいました。と言うよりは、日吉ヶ丘高校には、美術課程を切り離す必然性がなかったのです。
  昭和四〇年代、美術科の生徒の約半数は、卒業後すぐに就職していました。京都の地場産業界、特に染織関係業界は活況を呈し、若い労働力を求めていました。しかし一方、中学校では数字に表れる進学率から判断して「日吉の美術課程から、大学進学は難しい。美大を希望するなら、普通科へ」という指導が強まってきました。

 * 独立に向かって
  一九六八(昭和四十三)年、日吉ヶ丘美術科の教員一同が「美術工芸課程の単独性実施促進に関する要望書」を市教育委員会に、「芸大移転に伴う跡地使用についての要望書」を市文化観光課に提出し、初めて独立の意志表示をしました。
  「多くの専門校がその校名の一部に「工業」「商業」「農業」等とその主たる教育内容を明示しているように、校名の一部に「美術工芸」を明示して、専門教育を行っていることをアピールしなければ、一般にはなかなか正しい理解が得られない」と言うのが独立を望む第一の理由でした。
  翌一九六九(昭和四十四) 年には美工、日吉ヶ丘美術科の卒業生による「京都市立美術工芸高等学校設立準備世話人会」が発足し、美術作家、伝統産業界に働きかけることを決めました。この後、「世話人会」は市議会に対して請願書をくりかえし提出しましたが、市の財政面の事情によって進展を見ることができませんでした。
  いつのことだったか、記憶が定かではありませんが、市教育委員会から「美術科の実習棟を改築する」計画が伝えられました。美術科の教員は「独立を考えているのだから、その必要はない」と断りました。しかし、「戦後間もなく建てられた木造校舎の殆どは全部建て替えが完了して、残っているのはここだけとなった。如何しても建て替えたい。独立は別途考えよう」というやりとりの末、押し切られるように改築案を了解しました。
  一九七六(昭和五十一)年四月、市議会は市立高校の中で最後に残った木造校舎、日吉ヶ丘高校の美術科実習棟の改築予算案を可決し、同時に美術科を独立校とすることを附帯事項として決めたのです。
  実習棟として使っていた木造校舎を取り壊して、新しく鉄筋コンクリート造り三階建ての実習棟を建てようと言うのですから、この時の独立校案は日吉ヶ丘高校に隣接した形で美術工芸高校が発足する予定だったと思われます。美術科の教員たちはそのように思っていました。何故なら、これより少し前の昭和  年に、東京都立駒場高校の芸術科が、移転せずに都立芸術高校として独立していたのです。
  この年の一〇月に、「京都市立美術工芸高等学校設立準備世話人会」は発展的に解消して、「京都市立美術工芸高等学校設立推進会」を発足し、同窓会、美術界、伝統産業界、地元産業界等の協力な支援を得て運動は飛躍的に発展しました。
  やがて実習棟の建築が始まりました。そして独立は「この場所でではなく、他の場所に移動させる」とする話が浮上してきたのです。当時、京都市の都心部、中京区、下京区では住民のドーナツ化現象が進み、小学校や中学校では生徒数が激減し統廃合は避けられない状況にありました。このような中、最初に犠牲となったのが銅駝中学校だったのです。
  実習棟の建築が進行中に、他の場所に移転することが決まってしまいました。この実習棟は、昭和五十三、五十四年度の二年間は美術科の実習室として使われた後、日吉ヶ丘高校の特別教室等に転用されましたが、これは「税金のムダづかい」の謗りを免れるものではないでしょう。
  ここで、銅駝中学校の沿革について触れます。
  幕末の動乱、維新の興奮が醒めやらぬ明治二年、京都の市民たちは、政府の勧学のすすめに応じて教育の重要さに目覚め、日本で最初に学校制度を採り入れました。市内六十四の町組ごとに競い合って資金を募り、力を合わせて子弟の教育のために学校を創りました。銅駝校もこの年に住民の汗の結晶として生まれた学校です。校名の「銅駝」は創設地の平安京当時の坊名から命名されたもので、古くは中国の長安京に由来します。銅駝と同じように坊名から命名されたものに教業校、淳風校、崇仁校、陶化校などがあります。
  昭和二十三年の学校制度改革に伴って、銅駝小学校の校舎は新制中学校が使うことになりました。
  学校創設以来、昭和十六年に学校の経営管理が市に移管されるまでの間、学校用地の買収、校舎建築をはじめ日常の学校運営費は全て学区住民の負担であって、有志の寄付金の他、戸割、人割などで学区住民に割り当てられていました。また当時の学校は行政の末端を分担していました。各学校には、戸籍簿が備えられて、集会所や消防の詰所として使われるなど、町民自治の拠点としての機能も併せ持っていたのです。後に学校教育と地域住民の自治活動は分けられる方向に向けられましたが、今なお地域のセンター的な性格は学校に活きつづけているといえます。
  このような学区の人々にとって、自分たちの先祖が多大な苦労を払って築き守り育ててきた歴史と伝統のある学校を誇りに思い、こよなく愛着を抱きつづけて来たのです。
  この学校を廃校とすることを決めたとき、「銅駝中学校の跡地を利用する施設には銅駝の名称を冠すべきである」と、市会決議に附帯事項が付けられたのは地域住民の心情を配慮した措置だったのです。
  ところが、「推進会」は、「地域住民の心情は解る」としながらも、あくまでも校名は「京都市立美術工芸高等学校」でなければならないと主張し、にわかには納得しませんでした。この校名問題は、二〇年が経過した現在も同窓会の一部に根強く残っている大きな課題の一つです。
  このような経過を経て、一九八〇(昭和五十五)年四月京都市立銅駝美術工芸高等学校はスターとしました。時恰も一八八〇(明治十三)年に京都府画学校が創設されてからちょうど一〇〇年目でした。

 * 独立後
   新しい勤務先への通勤を始めて、気がついたことは、「日吉ヶ丘高校は、素晴らしい環境の中にあったのだ」ということです。周囲を森で囲まれ、キャンパスの西の端に立つと京都の街が眼下に一望できる高台です。初代校長横山佐九郎先生が、苦心して探し当てた、校地としては絶好の場所だったのです。
  それにひきかえ、新しい学校は、自動車やバイクの音、河原町通りを走り抜ける救急車のサイレン、時にはちり紙交換のスピーカーの声等々、まるで騒音の中です。学校の外を見まわして見ても民家の屋根ばかりです。
  日吉ヶ丘高校から移ってきた生徒たちは、急激な環境の変化に戸惑い、しばらくは教室の内外にラッカースプレーで落書きをしてみたり、バクチクを鳴らしてみたりと、押え切れないイライラした気分を爆発させていました。しかし、これは過渡的な現象で、数年後にはすっかり落ち着きを取り戻しました。
  銅駝美術工芸高校として独立した時、学校では、
一 美術系大学進学希望者の学力の向上をはかる。                                      二 伝統産業界に活躍する人材を育成する。
三 美術工芸作家を目指すための能力を培う。
という「目標」を定めました。しばらく低迷していた進学率の向上を第一の目標にしたのです。そのためには、休暇中や放課後の補習の強化、習熟度別の講座編成や学校行事の精選など、考えられる限りの方策を試みました。そして毎年徐々にその効果を高めてきたのです。
  独立後二〇年が経過しました。冒頭で紹介したような明るい生徒たちが集まってきました。進学率は確実に伸びました。進学率の上昇に伴って、就職を希望する生徒が減りはじめました。当時の教職員は、バブル経済の崩壊や就職氷河期などと言われている現在の状況を想定していた訳ではありませんが、結果として、僅かな隙間を通って危機を避けることができたといえます。中学校からは「銅駝美工への入学は難しい」という評価を取りました。
  学校教育をこのような視点だけから評価するのは正しくないと思います。高等学校における美術の専門教育が果すべき役割はなにか。美術教育の基礎・基本はなにか。個性を伸ばし、文化の創造と発展に貢献できる人材の育成等々考え実践しなければならないことは山積している筈です。
  しかし,めまぐるしく変化する社会、無制限に氾濫するさまざまな情報に翻弄されつづけている学校の教職員が、一丸となって具体的な目標に向かって取り組むとすれば、奇麗ごとではなく、今は、当面の生徒の希望=進学を確実に保障する以外には無いのが現状です。

 * 美工の発展に貢献した人々
  前にも書いたとおり、京都市立銅駝美術工芸高校は、二〇〇〇(平成十二)年七月一日に創立一二〇周年を迎えました。私は、それより2年前に定年退職していましたが、在職中一二〇周年を迎えるにあたり、「学校沿革史」を是非作りたいと思って、学校に保存されていたいろいろな記録に、できる限り丁寧に目を通しました。そのお陰で学校の歴史についてかなり詳しく知ることができました。
  学校の設立や発展に貢献した人々の筆頭は、幸野楳嶺です。
  幸野楳嶺は、学校設立の経過について次のように述べています。
 「田能村直入が画学校設立の請願書を京都府知事に提出したことを聞き、望月玉泉、久保田米仙、巨勢小石等と相談して、同様の請願書を提出した。画学校設立については、師塩川文麟や森寛斎等とも相談したことがあった。今も耳の底に残っている。
  田能村直入の願書の写しを見たが、主意は風流高尚を旨として翰墨遊戯の域を出ていない。そこで『画学は国家の有益なこと』を記して提出した。その後仲間を集め『立功』という社盟を結んで、画学校設立について話し合ったり、関係機関に働きかけてきたが、同志は少なく、中には陽従陰乖までいる。甚だしいのは我々のことを愚か者呼ばわりする者までがいる。
  そうしているうちに私は病気になってしまった。病中、久保田米仙に、私は病気が重い、もし死ぬようなことになったら代って学校設立を成し遂げてくれ。昔、楠公が湊川陣の時、最後の一念に因て云々・・私がもし死んだら厲鬼となって妨害している画人たちを蹴殺して学校設立をやり遂げたい・・米仙や友人たちはしばらく学校のことを忘れるように言ってくれた。
  やがて病は癒り、十三年学校出仕を命じられた。学校は開業したが、まだ日は浅く、校則などが完全ではない。画家の中には画学校がどのようなものかを知らない人もある。私は病気が再発して退職した。
  内国勧業博覧会を視察するため上京し、多くの関係者の話を聞いて思うことがあって、戻って米仙や岸九岳と相談して、画学校の中に工業科設置の請願書を提出した。この科は府下の工芸家の子弟を教育するためのもので、学校の後援者たちに説明してまわっているがまだ実現していない。」
  学校設立の思い入れに凄まじさを感じます。
  請願を受けた京都府知事の槙村正直は、直入らと募金活動に奔走していましたが、島根県知事に宛てて「思うようにお金が集まらなくて困っている」と嘆いています。
 竹内栖鳳が就任したのは、一八九五(明治二十八)年五月となっています。栖鳳は従来の指導方法を変え、「師のマネをするな」と教えて、写生を中心として個性の伸長を図ったと言われています。翌二十九年には、生徒の作品を陳列して、初めて一般に公開しました。生徒作品展の始まりです。
  その後、学校はさまざまな起伏を乗越えて発展してきました。多くの立派な指導者がおられたことと思いますが、記録の中からは抽出することができません。戦時中に美工を卒業した先輩の先生方から、「入江波光先生はすばらしい方だった」という話を何度か聞きました。
  戦後、日吉ヶ丘高校となった時、初代の校長横山佐九郎先生は、「学校は人間を鍛える道場だから、俗塵を避けた高台に建てなければならない」という強い信念のもとに、教職員を手分けして東山区全域にわたって校地になりそうな場所を探し周ったそうです。
  現在の日吉ヶ丘高校の所在地は、もと泉山御陵の付属地で皇室の所有地でした。この地の払い下げを願い出て許可が下りるまでには、皇室の財産会議や国会の決議が必要だったそうです。払い下げの決定を待って、直ちに整地に取りかかり、校舎の建築が始まりました。
  この校舎は、東京大学教授堀口捨巳博士の設計によるもので、二階の一部には茶室がありました。この茶室で創設時の茶道部指導に当たったのは、当時在校生であった作家秦恒平氏(現在京都美術文化賞選者の一人)と聞いています。多くの思い出があることでしょう。昭和五十二年の校舎改築にあたって、この茶室の部分だけは解体後、中庭に復元され、今も保存されています。この保存には、当時彫刻科の指導を担当されていた藤庭賢一先生の努力があったと聞いています。
  六・三・三・四制度施行に伴って新制高校としてスタートした頃、当時の先生方の前にはとても多くの困難な課題が山積していました。何しろこれまでに一度も経験のない、考えたこともない制度下での学校つくりです。
  最初のしかも最大の課題は、実習内容の見直しでした。かつての美工は、小学校を卒業した生徒がその後五年間在学して実習に取り組んでいました。新制度では、これを中学校の三年間と高校の三年間とに分けました。五年間で行っていた学習内容をどのように取捨選択して高校三年間にはめ込んで、教育内容を充実させるか、七〇年の歴史と伝統の中で、繰り返し精錬されて完成していた教育内容の変更は、とても一朝一夕でできるものではなかったと思います。
  もと漆芸科の水内杏平先生は、日吉ヶ丘高校のPTA機関誌に次の回想文を寄せられています。
 「当時、一般の人たちの間に京都の美術学校はなくなったと言われ、これが地方の人の話題になったくらいだから、私たちは機会ある毎に学校の移り変わりについて説明しなければならなかったのです。これでは困ると思って始めたのが美術コース展で・・」
  水内杏平先生は美術科の独立に際しても、重要な推進役の一人として、趣意書の作成から請願書や陳情書等の原文つくりを一手に引き受けて、その手腕を振るわれました。
  先生は,また日吉ヶ丘の設立当初から独立の直前までの約三〇年間、常に美術科のリーダーとして私たち後進の指導にも活躍されました。
  同じ機関誌に日本画科の勝田哲先生は、次のように述懐しておられます。
 「第一回の美術コース展を開くことになったが、新しい形式で始めて開くことなので、随分とまどったり、苦労することが多かった。少しでも多くの人に見てもらうためデパートで開きたいと考えて…丸物へ交渉して五階の催し場全部と文化画廊を借りることになった。そして生徒の作品の他、美術コースが明治初年の画学校以来、美術工芸学校を引継いでいる関係を一般に知ってもらうため、旧職員の作品を併せて陳列する計画を立てた。旧職員と言ってもそれは明治大正昭和三代にわたる京都美術界の大立者を悉く含んでいる。田能村直入、幸野楳嶺、森寛斎、富岡鉄斎と言うところから栖鳳、春擧にいたる大家たちである。…それでも成るべく代表作を選び、所在を調べ、所蔵者の承諾を得るところまで随分苦労した。そのかたわら生徒作品の指導、種々の説明図表の作成、案内状の宛名調べ、パンフレットの編集、ポスター等、美術科の全職員で分担してあたったが、すべて最初のことだからたびたび会議を開いたり、交渉に出向いたり、会期が九月初めだったため、夏休みは完全に返上してしまった形となった。」
  日吉ヶ丘高校から離れ、単独の高校として再出発するための準備に関わって最も苦労して活躍されたのは、日本画科の橋田二朗先生だったと思います。世話人会や推進会の纏め役を買って出られて、役員等と共に関係機関との折衝など最も困難な仕事を一手に引き受けておられました。
  校内で美術科の教職員の束ね役には図案科の野村耕先生が当たっておられました。
  この他,教員として生徒の指導にあたられた方々の一部を紹介すると、富岡鉄斎 横山大観  鈴木百年  都路華香  菊池契月  西山翠嶂  川村曼舟  山鹿清華等を挙げることができます。
  次にこの学校で美術・工芸を学び、卒業後美術・工芸の世界の第一線で活躍された方々の中から、思い付きでそのお名前を連ねてみます。
 *北村西望  建畠大夢  *徳岡神泉  入江波光  村上華岳  *堂本印象 榊原紫峰  *福田平八郎  前田荻邨  玉城末一  甲斐荘楠音  中村大三郎 小合友之助 矢野判三  麻田辧自  岡本宇太郎  三輪晁勢  *上村松篁 徳力富吉郎  稲垣稔次郎 吉田友一  林司馬  天野大虹  河井健二  水内杏平  岡本庄三  安田謙 新開寛山  峯孝  佐野猛夫  皆川泰蔵  今村輝久 向井良吉  藤庭賢一 八木一夫  下村良之介  伊東慶  鈴鹿雄次郎  伊砂利彦  橋田二朗  上原卓 加山又造  山本知克  野村耕  麻田鷹司  三輪良平 野々村良樹  鈴木雅也 木村盛伸  大塩正義  高橋完二  中路融人  番浦有爾  岡村倫行  江里康慧 藪内弘  服部峻昇  江里敏明等々。
  一時在学していた方にも、*上村松園、狂言師の茂山千作さんがおられます。
 *印は、すべて、文化勲章の受賞者です。

 * 工芸に関する専門教育
 最後に補足して、ここに、実際に私の関わりました「工芸」教育について、体験に基づく私見を添えますことをお許し願います。私の専門は陶芸でありますので、あえて絵画等の「美術」には触れないことも、併せお断りします。
  工芸の教育を考える前に、工芸とは何かについて私なりの考えを明かにしておくことが必要でしょう。
  人々の生活を歴史的に眺めて見ると、現代の文明社会のように、生活に必要なモノを工場で生産し,市場で販売し,必要な時にいつでも入手できるようになったのは、極めて新しいことで、人々は発生以来今日までの長い間、生活に必要な道具や器具、その他の諸々のモノを自然物の中から選び出し、或いは、自身の手と僅かばかりの道具を使って一つずつ作ってきたのです。人間の手には十本の指があり、その指は更にそのおよばないところを成し遂げる道具を使いこなす能力を持っています。人々の生活は、常にある目的を持っていて意識的であることと、自然の中にある材料を巧みに使い、それを加工することが、他の動物と決定的に異なる点と言えましょう。人々は、何かに関心があればいろいろなことを試みることができるのです。
  今日の文化は、この営みによって創造され進歩してきたものと言えます。人々が、生活に必要なモノを自然物の中から選び出し、または自然物を利用して新たなモノを作るとき、たとえば槌には杭を打つための重い頭が要るとか、矢には獣や外敵をまちがいなく仕留めるための鋭く尖った先がなければならないと言うふうに、効用ということを主に考えながら創ったのです。創られたモノの形は、機能的な効率を高める方向に進化してきました。
  ところが、形は違っていても同じ働きをするいくつかのモノの中から、どれを選んでも良いという選択をするとき、人々は美的な判断あるいは精神的な安定を求める判断をするようです。一つの形を取り上げて、他の形を退ける行為は意識的に行われることもあれば、無意識に行うこともあります。また、十分に観察して合理的な判断に基づいて行われたり、直感的に行われたりもします。
  人々は誰でも、常に実用的な要求と精神的な要求を持っています。実用的な要求は、住まいを建て、衣服を作り、さまざまな器具や道具を作ります。精神的な要求は、作られたモノに複雑に作用します。人々の感情は、論理的、科学的にのみ解決できるものではないようです。しかも、人々の内面的な感情を造形的に表現するのは止むに止まれない行為のようです。私は、縄文時代中期の、実用品でありながらその実用性を全く無視したような過剰な装飾の土器を見るたびに、人々の精神的な要求の凄まじさを感じます。人々が欲しいモノは、食べ物だけではなく、食べることの楽しみや熱意なのです。制作者にとっても使用者にとっても喜びのないモノは退屈させるだけでお終いです。
  使うことが目的のモノでも、美しく洗練された魅力や精神的な安定感がなければ、完全な実用品とは言えません。「機能さえ完全であれば、わざわざ美的要素を添加しなくても十分に美しい」とする機能主義は必ずしも正しいとは言えないと思います。
 役には立つけれど美しくないモノ、美しくは見えるけれど実用には適さないモノがありますが、このような極端なモノは良いモノとは言えません。良いモノは両方の釣り合いの取れたモノだと言えましょう。
  人々が、生活に必要なさまざまなモノを美しく、使いやすく、ムダなく作ることを工芸といいます。言い換えれば、工芸は人々の最も基本的な要求に基づいて、生活に密着した、人間本来の造形的表現です。
  工芸は、個人的、主観的な要求のみによって作られるモノではないのです。客観的な用途への適応、材料との適合が配慮されていなければならないのです。工芸の美しさは、制作者の教養や性格、生活感情や伝統などが作品の中で息づいているという意味で主観的であると同時に、作られたモノは人間経験から引き出されているものですから客観的普遍的なものでもあるのです。
  人々の生活を豊かにする役目を果す工芸は、どのような生活を望むかによってそのあり方が変わるわけで、制作者の人生観の表れでもあります。
  工芸とは、このように主観的な面を持つと同時に客観的な性格の営みですから、その制作者は個性豊かで、自分の作ろうとしているものの意味を考え、用途や実用性を意識的に考え、複雑な制作行程を計画し、実行する合理的で論理的な思考力を持つと共に現代社会の生活精神を正しく把握し、自らの生活感情の中に同化していなければなりません。工芸の美しさや良さは、制作者の優れた造形感覚、個性、社会性に対する誠実さと制作に対する熱意、創造精神の現れであるともいえます。
  工芸制作に携わる人材の育成には、組織的、計画的な教育が必要です。
  工芸の制作に忘れてはならないのは技術の習得です。技術がなければ工芸は成り立ちません。人々が自然に対してなにかを創り出そうと意識的に働きかけるとき、必ず技術が伴います。技術は、人々の生活から切り離すことのできない深いつながりを持っていますが、それはある目的をやり遂げるための方法・手段であって、技術そのものが目的ではありません。
  技術は、自然にはないモノを創り出す行いで、具体的、実践的な性格を持っています。しかも自然の法則に則り自然の中に働きかけて行くのですから、自然を正確に観察する力が要求されます。技術は、その発生の初期の段階から絶えず改良進歩が続けられて、今日の高度なものにまで至ったように、人がこれを習得する場合にも初歩的な段階から徐々に向上させて行きます。技術の向上には、計画的な訓練が必要です。訓練は何度も同じことの繰り返して経験させて、技術を体得させることで、時には退屈で、またある時には強制されることもあります。技術は訓練を通して習得、向上が期待できると同時に美的感覚や造形感覚も啓発されるのです。
  工芸学習には、まず技術の習得が目的の一つですが、技術を固定的に考えてマニュアルに基づいた方法を強制するのは正しいことではありません。大切なことは、技術を教えるのではなく、人々が最初にモノを創り出して現代にまで技術を発展させてきた軌跡を学ばせ、技術に対しても創造力を発揮させることです。繰り返し経験し、失敗を重ねながら技術の法則に従うことを学び取り、自らの力で発展させることが肝要です。
  工芸の学習の中で、素質の有無が話題となることがあります。私は「素質は本来誰にでも備わっていて、生育歴の中で環境や教育によって個人差が生じるものだ」と考えています。素質は訓練を通して開発することができると思います。」
  工芸の学習は、作り方だけの学習ではなく、生活の道具を創造する学習です。工芸の学習は実習室の中だけで行うのではなく、日常生活のあらゆる機会を通して行われるのです。最終の目的は、モノを観察し、モノを創り出すことで、創られたモノが形式においても内容についても、頭の中でイメージしたモノと完全に一致しているか否かをもう一度確認することです。
  個性は、孤立しているだけではなんの価値もないのですが、社会と接触することで価値が生じます。お互いに相反するかもしれない個人の主観的な感情や感動と客観的な世界との複雑な係わり合いを巧く調節することで人は社会の一員としての価値を持つことができるのです。
 教育の最も重要な機能は、この心理的な調節を助長することで、社会において人と人、組織と組織の接触に関して、何が真で、何が善で、何が美であるかという感覚の育成であると思います。この教育は一人一人の知能や判断の基礎となっているいろいろな種類の感覚の教育です。この感覚が外の世界と調和のある持続的な関係におかれたとき、はじめて統合的な人格が作られるのです。
 個性と客観世界の関係は、工芸における主観的な感覚と客観的な用途との関係に通じていて、工芸教育の意味は極めて大きいと言えます。
 

(筆者は、前京都市立銅駝美術工芸高等学校校長。陶芸家。)
 

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