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図書館ニュース          1988年11月   銅駝美術工芸高等学校

 

「日本、その日 その日」

 今年の夏、エドワード・S・モースの「日本、その日 その日」を読みました。百年前の美しい日本にタイムスリップした思いのする愉快な本でした。

 モースといえば、明治10年に始めて日本を訪れ、横浜から新橋へ向かう列車の窓から大森貝塚を見つけ、後日ここを発掘し出土した土器に「縄文土器」と命名してことでよく知られています。私は最近までモースについて、これだけのことしか知りませんでした。

 国立民族学博物館の共同研究『エドワード・S・モースとそのコレクションに関する研究』の報告書を手に入れ、始めてモースのさまざまな業績を知りました。

 日本におけモースの業績の主なものは、大森貝塚をはじめいくつかの貝塚や古墳を発掘し、江ノ島に東洋初の臨界実験所を設け、東京大学動物学教室の初代教授として多くの人材を育て、日本の民具や工芸品を収集し、住宅建築を研究するなど、わが国の考古学、生物学、民俗学等の基礎をつくりました。一方、ダーウィンの進化論を最初に紹介したり、日本美術を世界に広めたフェノロサを日本へ連れてきたのもモースでした。また、彼の日本陶磁の収集は一万点以上にものぼり、後にボストン美術館の東洋陶磁コレクションの母体ともなりました。

 モースは、三度来日したのですが、その期間を合わせても三年足らずです。たったこれほどの短い期間によくこれだけの仕事ができたものだと驚かされます。

 モースは、彼の多くの業績が示すとおり、好奇心のかたまりのような人です。日本に滞在した間に、北海道から九州まで各地を旅行し、人々の生活の様子や住まいのたたずまい、風景などを丹念に観察し、日記をつけ、沢山のスケッチをしています。

 彼はもともと動物学者です。二枚貝によく似た腕足類と呼ばれる動物の研究が目的で来日したのです。「日本 その日 その日」は、彼を乗せた汽船が横浜の港に着いたときからはじまります。汽船から小舟に乗り移り、上陸するまでの僅かな間に、伝馬船の櫓の形をスケッチし、船頭たちの掛け声をメモし、みなと近くのホテルで一夜を過ごした翌朝には、ホテル近くを散策し、はじめて見る下駄や草履、工事現場の様子、商店や店員たち、人力車や車夫のいでたちや走り方等々、目にするものすべてのものを観察し、これらの特徴を的確につかんでいます。

 東京では、相撲や歌舞伎を見たり、落語や浪曲を聴き、茶の湯に接します。中でもおもしろいのは、火事を知らせる半鐘を聞くと、時刻をかまわず飛び出して、消火活動をようすを初めから終わりまで詳しく記し、スケッチまでしているのです。

 旅行中は、各地の民家の屋根の形や建て方の違いを観察し、農作業の方法や農機具までも調べています。

 このようにさまざまな事物を見ているうちに、彼は日本人が日常使っている品々の素朴な美しさ、住まいの内外に見られる洗練されたセンスや、自然をたくみに取り入りた日本人の生活の知恵や人々のこまやかな人情などに魅せられていきます。

 この本を読んでいると、この百年の歴史の中で、近代化を急ぐあまり日本人が本来持っていたはずの、そしてどこかに置き忘れてきた最も大切なものは「これなんだよ」と一つ一つ教えてくれているようにも思えました。

 

 

 

図書館ニュース          1992年11月   銅駝美術工芸高等学校

 ヒヨドリジョウゴ

 わが家の勝手口のわきに柿の老木がある。手入れをしないので実は隔年ごとにしか成らないが、葉は毎年春に芽を吹いて秋には散る。これがトユに引っ掛かって水捌けを悪くする。少し強い雨が降ると所かまわずジャブジャブと溢れる。家のためには良くないことは判っているのだが、めんどうだから放ってある。

 ある年、トユから一本の草が生えてきた。蔓状に伸びた茎に切り込みのある葉が何枚か生えてきた。初秋に白い小さな花が咲き、やがて南天ほどの丸い赤い実がなった。透き通るような朱色を美しいと思った。末娘がこれを見て「かわいい」といって喜んだ。妻は苦笑していた。

 トユは、どれほど落ち葉がたまっていても、真夏に四~五日も雨が降らなければカラカラに乾いて植物にとっては過酷な場所に違いない。にもかかわらず春から秋まで生き延びて健気にも実をつけたのだ。翌年の春、おなじ茎から葉が出たのを見届けて庭に降ろしてやった。数日後、植えた場所にそれらしい草がない。家人に聞くとだれも「知らない」と言う。そのまま消えてしまったらしい。惜しいことをしたと思った。

 ある日、学校へ来る途中、名鉄駐車場のフェンスの下におなじ草を見つけた。アスファルトとセメントで固められた道路の隅っこに吹き溜まった僅かな土を頼りに20センチほどに伸びていた。根を傷めないようにそっと起こして持って帰り庭に植えた。これも数日後になくなった。少し心が痛んだ。それにしても、よほど条件の良くない場所が好きな草なのだろうか。

 後日、理科室の窓の下でこの草を見つけたが、「もう抜くまい」と思った。

 

 昨年の秋、父を亡くした後、父の部屋の前の庭に鬱蒼と繁っていた雑木を後に何を植えるつもりもなく、ほとんど全部抜いて捨てた。風通しが良くなり、部屋が明るくなった。

 庭は、この春以来雑草の生えるにまかせてある。ここに,何故かくだんの草が生えてきた。しかも一本や二本ではない。数十本、いやそれ以上あるかもしれない。一緒に生えてきた背の高い草に巻きつきながらぐんぐん伸びて、わがものがおに繁っている。そして今、例の小さな白い花が黄色いシベを突き出すように咲いている。やがて透き通った朱色の実がたくさんつくことだろう。小鳥が集まるかもしれない。今はこれを楽しみにしている。

 ちなみに、この草の名は、「ヒヨドリジョウゴ」といい、広辞苑には次の説明がある。

ヒヨドリジョウゴ--〔鵯上戸〕ナス科の多年草。山野に自生し、有毒。他の植物に巻きつく。葉は長楕円形で三~五裂し、葉、茎ともに柔毛が密生。夏から秋にかけ、花軸を出し、白色五裂の花を開き、花後ナンテンのような赤い液果を結ぶ。漢名、白英。

 

 

 

図書館ニュース          1995年11月   銅駝美術工芸高等学校

ときには下を向いてあるこう

本校では、毎年秋に三年生が、倉敷の大原美術館とその近くにあるいくつかの美術館を見学に行くことになっている。大原美術館は、JR倉敷駅から十五分ほどのところにある。この道は、歩道が少し広めに取ってあって、辺りの店先などを眺めながらゆっくり歩くのに都合がよい。この歩道の所々に藤の花をあしらったマンホールがある。これには彩色までしてある。初めてこれに気がついたとき「なかなか洒落た趣向だな」と思った。

何年前になるのか、大阪の鶴見緑地公園で「花と緑の博覧会」というのがあった。

博覧会のメインゲートを入った所で、この催しのためにわざわざ作った花模様のマンホールを見た。「こんなところまで配慮しているのか」といささか驚いたが、そのときそう思っただけで、どんな花模様だったのか、今ではすっかり忘れてしまった。

ある年、親しい友人たちと鳥取へ旅行した。城跡の側の県立博物館の前の道で、この地方の郷土芸能「傘踊り」の傘を図柄にしたマンホールを見つけ、カメラに収めた。その後、他都市へ出かけるときは、なるべく足元にも注意を払うようになった。

山形県上山市には、へのへのもへじの案山子のマンホールがあった。

山形市では紅花が、佐賀市のは有明海のムツゴロウ、洲本市は水仙。徳島県鳴門市では、市のマークなのかも知れないが、真ん中に小さな渦巻きがあって思わず笑ってしまった。倉吉では、椿の花だけでなく「躍動の町 耀く人・緑」とキャッチフレーズ入りのがあった。

京都の近くでは、亀岡市が亀、長岡京市は当然のことながらタケノコを、向日市はなぜか桜の花びらだ。八幡市は、ハトが八の字状に向き合っている。これでは「ヤハタ」ではなく「ヤハト」になってしまう。

このほかにも、さまざまなものがあるが、多いのは花柄だ。タンポポ、ツツジ、アヤメ、ユリ、バラ、ボタン等々ちょうちょ、蛍、バッタなんてものもある。

ところで京都市は、ずいぶん注意してあちこち探し回ってみたが、残念ながらありきたりのものばかりで、旅行者をホッとさせるようなものはどこにも見当たらない。

ときには足元に注意を払って、下を向いて歩こう。

 

 

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