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新匠            1995年10月     新匠工芸会第50回記念誌

 

天目考

 「天目」と呼ばれる茶碗がある。黒ないしは黒褐色の釉薬のかかったもので、釉薬のようすから油滴、耀変、禾目などいくつかの種類がある。もともと中国福建省建陽県にあった窯で作られたもので、はじめは『建盞』と呼ばれていた。鎌倉時代に、はじめは禅刹から、やがて公家の世界に、そして武士階級へと抹茶を喫する習慣が広がった。この茶の湯の流行にあわせて、中国の各窯業地からたくさんの茶碗が輸入された。

『天目』という名称は日本でつけられたものである。この茶碗が「天目」呼ばれるようになった謂れには、いくつかの説があるが、中国浙江省の天目山周辺の寺院で盛んに使われていたということで、名づけられたというのが最も有力な説である。

 ところが、手もとの資料によると、渡来僧、留学僧たちの修行をした寺院の所在地は、径山、天台山、五台山、郁王山、天童山などはあるが、天目山というのは意外に少ない。なぜ「天台」でも「郁王」でもなく「天目」なのだろう。

 足利八代将軍義政の財産目録「君台観左右帳記」には耀変、油滴、建盞、天目が併記されていて、「天目」は「上には御用なきものにて候」という記述があり、評価に値しないものとして扱われていたようである。

 一方、鎌倉時代に中国の釉薬の技法が伝えられた瀬戸地方では早くから中国陶磁器を模倣したものが盛んに作られていた。そしてこの当時、建盞の模倣品もたくさん作られた。が、これらを「建盞」と呼ぶわけにはいかない。

 建盞写しの釉原料に欠かせないのが、この地方で鬼板と呼んでいる褐鉄鉱である。

 ところで、わが国の製鉄の技術は、紀元前三世紀頃稲作と一緒に伝わり、各地に広がった。褐鉄鉱は、後に磁鉄鉱(砂鉄)にその役割を譲ることになるが、初めは製鉄の重要な原料であった。

 さて、日本書紀に『天目一箇神為作金者 あめの まひとつの かみを かなたくみ とす』とあり、古語拾遺集にも『天目一箇神作雑刀己及鉄鐸 あめの まひとつの かみをして くさぐさの たち おの また くろがねの さなぎを つくらしむ』という記述があって、わが国の古代神話の中に登場する八百万の神々の中に『天目一箇神』と呼ばれた、鉄を司る神様が居られたことになっていた。炉の中を見つづけていたために片方の目を傷め、隻眼となってしまわれた神様である。今なら労務災害の対象になる。

 瀬戸製の建盞は、天目一箇神の司る鬼板を使って作った茶碗だから、『天目一箇神茶碗』すなわち『天目茶碗』と呼ぶことにしようと、こんなことを思いついた茶人がいたのではなかろうか。

 

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