陶芸家 江口滉
京焼一
この連載は、前回がちょうど百二十回で、十年が過ぎたことになります。が、もうしばらくお付き合いください。
桃山時代以降、今の京都市内とその周辺地域で焼かれたやきものを「京焼」といいます。
京都市の周辺には古墳時代から奈良時代にかけての須恵器の窯跡や、平安京を造営したときの緑釉瓦を焼いた窯跡がいくつか知られています。しかし、これらの窯の技術は後の京焼にはつながりませんでした。また、桃山時代に京都で始まった「楽焼」も別の独立したやきものとして扱い、京焼には入れないことになっています。
七九四年にわが国の首都としてスタートした京都は、その後一〇〇〇年余の間、栄枯盛衰を繰り返してきましたが、常に日本的な文化の中心地であり、人々の密集した日本最大の都市でした。
都では、早くから建築、彫刻をはじめ絵画や染織、漆器、金属器、その他のさまざまな工芸品の洗練された美しい製品が盛んに製作され、使用されてきました。ところがたった一つ、やきものだけは長い間作られていませんでした。日常、厨房で使う甕、壷、すり鉢などは信楽や丹波から運ばれて、飲食器は瀬戸などから、さらに有力者たちが占用していた高級品は中国からの輸入品で賄われていました。
京都でやきもの作りが始まったのは十七世紀初頭、桃山時代の後期からです。「京焼」という言葉は、博多の貿易商人で茶人でもあった神屋宗湛(かみやそうたん)の日記で、一六〇五(慶長十)年六月十五日の茶会の記録の中に「肩衝京ヤキ」と記されているのが最初とされています。次いで同年の九月二十六日の記録に「黒茶碗京焼也ヒツム也」とあります。いずれも瀬戸の肩衝茶入れや瀬戸黒茶碗を模したものが、この頃から京都で作り始められていたことをうかがわせます。その後の京焼の動向を知る手がかりとなるのは、金閣寺の住職鳳林承章(ほうりんじょうしょう)の日記「隔冥記(かくめいき)」で、一六三九年以降の京焼に関する記述が多く見られます。
また、尾形乾山の著書「陶工必要」と「陶磁製法」によると、『一文字屋助佐衛門が、楽焼の長次郎より先に、中国人から伝授された内窯の陶法によって押小路焼を始めた』とあります。内窯というのは、屋内で低火度の鉛釉陶を焼く小さな窯のことで、『押小路焼は緑、黄、紫の色釉を施した交趾焼の写し』と記されています。押小路窯は御所から南へおよそ五〇〇メートルほどの押小路柳馬場東入るにあったとされています。
※ 交趾焼(こうちやき) 現在の南ベトナム地方で焼かれた鉛釉の低火度の三彩陶のことです。
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