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京焼九 仁阿弥・ほか

 

 頴川の門下で木米と並んで逸材と言われた一人に仁阿弥道八(一七八三~一八五五 二代目高橋道八)がいます。頴川や木米がアマチュアの陶芸家であったのに対して、仁阿弥道八は、父親の代からの陶工で、いわばプロとしてスタートしました。彼の父親は、伊勢亀山藩の武家の出身です。若くして京都粟田口で高橋道八と名乗ってやきものつくりを始め、池大雅、木村蒹葭堂、上田秋成ら文人たちと親交を持って、煎茶道具を中心に作陶して、多くのファンがいました。

 仁阿弥は幼い頃から父親に従って焼き物つくりに励み、周囲の推挙を得て頴川に入門しました。二十二歳のとき父親を亡くし、陶家を継ぎました。数年後に粟田口から五条に住まいを移し、新築した窯で磁器の生産を始めました。四十二歳で剃髪し、仁和寺から「法橋」の位と「仁」の字を、醍醐三宝院から「阿弥陀」の号を賜り、その後仁阿弥道八と称しました。この頃から和歌山の徳川氏や高松の松平氏から招かれて、それぞれの地へ赴き製陶の指導を行っています。

 仁阿弥の作品は、家業の染付けや白磁などよりも京風の雅陶を好んで作り、色絵、唐物、高麗物、楽焼など土物の写しが高く評価されています。特に、乾山には強く魅かれていたようで、例えば乾山写しの「雪笹文手鉢」は本歌にせまる秀作です。また、彫塑的な捏り物も得意で置物や動物を模った香合や根付などは抜群の陶才をうかがわせるものがあります。

 欽古堂亀祐(一七六五~一八三七)は、仁阿弥道八よりやや年長です。本来は伏見人形の土偶師で家業を営む一方で頴川に師事し、青磁、交趾、染付け、色絵などを手がけました。型物成形に関しては「並ぶべき者なし」といわれるほどの力量の持ち主で、摂津三田の政治の発展に大いに貢献しました。

 尾形周平(一七八八~一八三九)は仁阿弥道八の実弟です。乾山にあこがれ尾形姓を名乗りました。染付けや赤絵に妙技をふるった陶工として知られています。淡路島珉平焼きの創始に尽力しました。

 永楽保全(一七九五~一八五四)は青木木米、仁阿弥道八と並んで京焼後期を代表する三名工の一人です。永楽家(本姓は西村)は室町時代から代々茶の湯で使う土風呂製作を家業としてきました。父親了全のときから茶陶を作り始めたと伝えられています。保全は、中国趣味、煎茶趣味に乗じて交趾釉、祥瑞写し、金襴手などの工夫を凝らし個性的な新しい作風を展開しました。

 永楽和全(一八二二~一八九六)保全の長男で、父親の真価を継承した名工の一人です。和全の生涯は、幕末の動乱期から明治維新へと激動の時代で、危機に瀕した京焼の伝統を守り、発展させることに傾けた一生だったといえます。器面に布を当てて上絵を施す独特の技法を創造したり、晩年にはコーヒーカップやスープ皿といった時代に即応した意欲的な作品を残しました。

 

 

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