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京焼五 乾山

 

 仁清に次いで京焼に大きな足跡を残したのは尾形乾山です。乾山は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の三男として生まれました。名を権平と言い、次兄の市之丞は画家尾形光琳です。尾形家はもと近江浅井家の家臣で、浅井家が滅んだ後、京都へ出て呉服商を営むことになりました。雁金屋は浅井氏の縁故から、豊臣家、徳川家、皇室等の御用をつとめ、特に後水尾天皇の中宮東福門院(徳川秀忠の娘)に引き立てられて、都で最大の呉服商として栄えました。

 光琳・乾山の父親尾形宗謙は、商人であると同時に文学、美術、能楽などにも通じた教養豊かな文化人でもありました。光琳・乾山兄弟は、美しい色彩や文様の着物をはじめ上流階級の文化を身近に感じることのできる極めて恵まれた環境で育ちました。父宗謙が亡くなったとき、家業は長男が継ぎ、光琳・乾山兄弟には莫大な遺産が配分され、気ままな生活ができました。光琳は教養の高い遊び人で、絵画を得意としていましたが、画家として作品を残したのは、遺産の殆どを放蕩で使い果たした後のことだと言われています。

 乾山には光琳のような派手な振る舞いは無く、静かな性格の読書家で、尾形家に伝わった蔵書の殆どを遺産として受け、物語、詩歌、和漢の典籍、禅僧の語録など幅広い書物に接していました。二十七歳(一六八九年=元禄二年)の頃、京都の西、双ヶ丘麓に習静堂と言う幽居を建て、隠棲のような生活をしていたようです。読書に疲れると、近くの仁清の工房を訪ね、やきもの作りを眺めたり、手ほどきを受けたりしていました。

 三十七歳(一六九九年)のとき、鳴滝に窯を築き、仁清の長男清右衛門と押小路焼きの孫兵衛の協力を得て作陶生活を始めました。ここは都から北西の方角(乾)にあったので、窯の名を「乾山」とし、後に雅号として使いました。また、この窯の場所は、後に関白に就任した二条綱平より賜った山屋敷の庭園の一部でした。ここはかつて「鳴滝の御茶屋」と呼ばれ、天皇や門跡、上流公家たちの社交場として使われていたところです。乾山は経済的な豊かさだけではなく、当時の最高級の文化サロンの一員でもあったのです。

 鳴滝窯での乾山は、極めて旺盛な創作意欲を持って、真摯に作陶活動に邁進していました。乾山の著書「陶工必要」「陶磁製法」を見ると研究熱心で凝り性の職人気質がうかがえます。レパートリーは低下度の土器から高火度の陶器、さらに磁器作りまで試みていました。作られた器種は皿、鉢など多様なものに挑戦していますが、茶道具ではなく、サロンの宴席で使う食器が中心です。

 乾山は、この窯で十三年間活動して五十歳の時、窯を街の中心に近い二条丁字屋町に移転しました。

 

 

 

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