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京焼七 頴川

 

 十七世紀の前半に、伊万里の磁器が全国に出回るようになると、各地のやきもの産地では「自分たちのところでも磁器を作りたい」という希望が生じました。京都でも磁器開発は悲願でした。

 江戸時代中期の末頃、十八世紀後半頃、京焼はやや沈滞気味でした。茶の世界では、一事盛隆を誇った茶の湯は少し後退し、文人と呼ばれる有力町衆や知識人たちのサロンを中心に、新しい煎茶が流行し始めました。このサロンで使われる道具類は中国趣味に溢れた磁器が中心でした。

 そのような中で、本格的な磁器焼成に成功して、京焼に新風を吹き込んだのは奥田頴川(一七五三~一八一一)です。頴川の祖先は、中国の明末・清初の動乱を避けて日本に渡来した中国人で、頴川の名は故国の地名に由来すると伝えられています。

 京都五条坂大黒町で大きな質屋を営んでいた叔父(奥田氏)の養子となり、五代目の茂右衛門と名のりました。頴川がやきものつくりを始めた動機は判ってはいませんが、三〇歳を過ぎた頃のことで、もともと住んでいた建仁寺の塔頭(たっちゅう)清住院に工房を建て、半ば趣味が昂じてのことだったようです。幕末に発行された陶磁器解説書「陶器考」によると頴川は、やきものつくりの技法を清水焼の海老屋清兵衛に学んだとあります。一方瀬戸へも赴き、磁器製造の始まる直前の瀬戸の技術も習得していたと言われています。

 このように、頴川は豊かな財力を持つ商人であると同時に、和漢の書籍にも通じた博識の文化人でもあり、専門の陶家がなかなか手がけることのできなかった磁器の開発や純中国的な意匠の研究に取り組みました。言い換えれば、費用や時間の要る研究に専念できる環境をフルに活用した極めてレベルの高いアマチュアだったとも言えます。

 頴川は、ゴス赤絵、古染付、古赤絵、交趾釉などの中国写しを中心に制作しました。作品は、すべて市販することなく、自分用と友人・知人に贈ったり、建仁寺の塔頭に寄進するばかりで、明治維新までは世間に余り知られてはいませんでした。

 頴川の代表作を二点紹介します。

<ゴス赤絵写四方隅切平鉢> 中国陶磁(ゴス赤絵)の写しですが、器形は四方を隅切の膳形にしたり、文様の配置などは和様化しています。描かれた鳥・魚・草花文様は本物よりも優れていると評価されています。

<交趾写兕觥(じこう)形香炉> 怪異な姿の殷・周の青銅器を写したもので、建仁寺に伝来した交趾焼きの大作。幕末京都では交趾焼きが流行しましたが、この作品は先駆けとなったものです。

 

兕觥(じこう)=中国古代の青銅器で、水牛に似た動物の角で作った酒盃

京焼
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