陶芸家 江口滉
渥美
平安時代の末に、源平の戦いによって戦火に見舞われ、多くの堂宇を焼失した奈良・東大寺は、鎌倉時代になって総重源らの努力と後白河法皇や源頼朝の援助を得て再建がなりました。この時、東大寺の屋根瓦を焼成したのは、渥美半島の突端に近い伊良湖の付近だったことは古くから知られていました。
また、渥美半島には、中世の古窯跡のあることは識者の間ではよく知られていましたが、一九六〇年代になって、豊川用水建設工事に伴って行われた発掘調査によって渥美窯の全体の様子が明らかになりました。これによると、現在までに確認された窯跡は約四〇〇基、既に壊されてしまったものや未発見のものを含めると、五〇〇基以上の窯があったと想像されます。
渥美窯は、いわゆる六古窯には数えられてはいませんが、中世期に瀬戸・常滑と並んで東海地方における大陶業地の一つだったのです。
この当時、渥美窯で作られた製品は、民間需要に対応した壷・甕・すり鉢と碗・皿類に祭祀用具や漁具・瓦など常滑のそれとほとんど同じで、販路は常滑に比べてやや狭いものの東北地方から四国までの太平洋沿岸各地の広汎に分布しています。
窯の構造は、この地域に発達した分焔柱をもつ窖窯ですが、粘土はやや耐火度が低いために、一定の温度に上げるまでには大量の薪を消費する、極めて不経済な弱点を持っていました。このことが、鎌倉時代の終り頃になって、常滑など他の窯との競争に敗れ、廃絶せざるを得なかった主な原因だろうと考えられています。
常滑の特徴の一つが三筋壺にあるとすれば、渥美には「刻文壺」を挙げることができます。壷の肩の部分に数本の平行な沈線で文様を刻み込んだもので、大小二種類があり、大に多くは経筒外容器として、小は蔵骨器または経塚随伴器として使われました。
蔵骨器といえば、忘れてはならないものが、国宝の秋草文壷です。一九四二年、神奈川県川崎市の道路拡張工事中に発掘されたもので、発見されたとき、壷の中には土砂に混じって火葬骨があったそうです。発見された当時は、常滑産と考えられていましたが、その後の調査の結果、渥美半島で作られたことが確認されました。大きくラッパ状に開いた口頸部とやや長めの胴部に、奔放な筆致で描かれたススキ、カラスウリ、トンボなど見る人を大らかな気分にさせる優品です。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 茨城県常陸太田市美里町 |
![]() 茨城県日立市 |
![]() 茨城県日立市2 |
![]() 茨城県日立市3 |
![]() 茨城県日立市4 |
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![]() 栃木県黒磯市 |
![]() 栃木県黒磯市2 |
![]() 栃木県黒磯市3 |
![]() 栃木県市貝町 |
![]() 栃木県那須市 |
![]() 栃木県那須市2 |
![]() 栃木県那須那珂川町 |
![]() 栃木県宇都宮市 |
![]() 栃木県益子町 |
![]() 群馬県渋川市 |
![]() 群馬県水上町 |
![]() 群馬県水上町2 |
![]() 群馬県前橋市 |
![]() 群馬県前橋市2 |
![]() 群馬県前橋市3 |
![]() 埼玉県嵐山町 |
![]() 群馬県某所 |
![]() 埼玉県東松山市 |
![]() 埼玉県東松山市2 |
![]() 埼玉県浦和市 |
![]() 群馬県岩槻市 |
![]() 埼玉県岩槻市2 |
![]() 埼玉県長瀞町 |
![]() 東京都某所 |
![]() 東京都某所2 |
![]() 神奈川県小田原市 |
![]() 神奈川県小田原市2 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市2 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市3 |
![]() 神奈川県横浜市 |
![]() 神奈川県横浜市2 |