陶芸家 江口滉
常滑
二〇〇五年の二月に名古屋から南へ突き出している知多半島の中ほど、常滑市の沖合いに新しい国際空港が開業しました。この飛行場は、中部地方における人・物・情報の新しい出入り口として、その価値と発展が大いに期待されたものでした。これまでもやきものに興味・関心のある人たちの間では話題にされてきた常滑市が、一挙に多くの人々にも知られることになりました。
常滑は、日本六古窯の内、最も古い歴史を持つ陶業地で、その起源は平安時代後期の西暦一一〇〇年頃とされています。常滑焼の起源には、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の従者、土師氏が始めた、僧行基の指導があった、菅原道真の遺子が開窯した、加藤景正が瀬戸に先んじてやきものつくりを試みた等々の言い伝えがありますが、どれも伝説の域を出ないもののようです。
五世紀の半ば頃から、須恵器製造の中心地だった猿投窯は、釉薬を施したやきものを開発したり、分焔柱を持つ窯を工夫するなど、わが国のやきものづくりの最先進地域として大いに繁栄しましたが、平安時代の後半期には、山茶碗の爆発的な大量生産が行われて、やがて原材料の枯渇に見舞われ、徐々に衰微して行きました。
工人たちはやむを得ず新しい土地を求めて移動を始めました。北の方へ移動した工人たちが開発したのが、瀬戸・美濃の窯で、南へ向かった一行が開いたのが渥美半島と知多半島の窯です。
知多半島は、良質の陶土と豊かな原生林に覆われた温暖な丘陵地で、さらに西側には穏やかな伊勢湾があり、製品搬出に恰好の港にも恵まれた、願ってもない理想的な陶業地でした。知多半島の窯(常滑)は、平安後期の創業から現在に至るまで、途切れることなくやきもの作りが行われ、その製品は、北は青森から南は鹿児島まで太平洋沿岸地域と日本海側の島根県まで運ばれていました。近年の発掘調査によると、常滑市を中心に分布する古窯跡はおよそ三千基を数えます。
平安時代に半ばを過ぎた頃から、日本の農業の技術は改良が進む一方、新田の開墾も拡大して、その生産量は飛躍的な増加を見せ始めていました。地方に根を下ろして定着していた武士たち、農民たちは、自ら開墾した土地を自分たちのものとして「私有した土地は自分たちで守る(一所懸命)」という自力の時代が動き始めていました。農業生産の伸びは、流通経済の発達を促し、商人たちも活躍の場を広げていました。
一方、鴨長明が著した「方丈記」には、平安末期に起こったさまざまな天災・異変・合戦など事変が綴られていて、都を中心に多くの人々の混乱、嘆き、悲しみの様子を伺うことができます。かつて、都で安穏と太平の世を謳歌していた貴族たちは、このような時代に変化に、一種の不安を募らせながら、これに立ち向かうための積極的な対策を採ろうとはせずに、現世の苦しみや恐怖は諦めるべきものとして、来世での救いを求め、仏にすがることばかりでした。
平安時代から鎌倉時代へ、貴族の世から武士の世への変化は、このような目には見えない民衆の底力に支えられて興った革命的な動きと、刻一刻と衰えていくさまを、手をこまねいて傍観していた貴族たちの政権交替劇でした。
このような大きな社会の変動は、やきものの世界にも影響を与えました。この時代のやきもの作りは、瀬戸の窯が猿投の技術を受け継いで、中国からの舶来品の模倣をはじめ、もっぱら支配階級向けの高級品を作っていたのに対して、同じ猿投の流れをくみながら、豊かになりつつあった民衆の需要に応じた日用品、甕、壷、すり鉢と無釉の碗・皿類を作り始めたのが、常滑と渥美だったのです。これは農村における生活必需品として、これまでには無かった製品なのです。
平安時代の末頃から操業を始めた常滑の窯が生み出した製品は、厖大な量で、その種類もさまざまです。それらの多くは甕、壷、鉢、碗、皿類で、基本は農民を対象にした日常の雑きです。しかし中には特殊な用途のあるものも少なくはありません。
その一つが、高さが三十センチほどの甕類で、経筒外容器として関東地方から近畿地方にかけて『経塚(きょうづか)』から出土するものです。
そしてもう一つは、経塚に、経典ほかに仏具などを納めるための容器としてつくられた「三筋壺(さんきんこ)」と呼ばれる壷類です。
これら経筒や外容器などの製作が盛んになりはじめたのは、十一世紀の中ごろ、平安時代の宮廷貴族・藤原氏の全盛期がすぎ、漸くその政権にかげりがみえはじめた頃です。
ちょうどその頃、宮廷を中心に末法思想が流行していました。末法思想というのは、釈迦の入滅後、時間がすぎるにつれて仏教の教えが徐々に衰えてゆき、ついには亡んでしまうという一種の運命的な歴史観に基づく予言的な思想です。正・像・末の三時説という考え方があり、これは釈迦の滅後千年間(五百年とする説もある)を正法の時代と呼びこの間、仏教の教えは正しく完全に伝わっていて、教えに従って修行をすれば誰でも証を得ることが可能な時代であるとします。
次の千年を像法の時代と言い、仏の教えは完全な形で残っているが、修行をしても証を得ることができない時代、そしてその次に来るのが末法の時代で、教えだけはあるが、修行する人もなく、証を得る人もいない、そして遂には仏教が全く滅んでしまうというものです。この末法は万年、つまり永遠につづくというものです。末法の時代がいつからはじまるか、釈迦の入滅がいつであったかについては、いくつかの説がありますが、わが国の平安時代の仏教では、末法到来を、永承七年(西暦一〇五二年)としていました。
ちょうどその頃、日本の歴史は一つの転換期を迎えていました。
平安遷都以来、およそ二五〇年、古代律令制度は崩れ、貴族たちは、習慣や前例ばかりを重視して政治に対する積極的な意欲と責任感を失いかけていました。都の内外では,比叡山の山法師、興福寺の奈良法師たちが、わがまま勝手なふるまいをし、政治に圧力をかけ、勢力争いに明け暮れし、寺院を焼くなど乱暴を働き、地方でも治安は乱れ、東北地方には反乱が起こり(前九年・後三年の役)長い戦乱の時代に突入します。「袴垂」と名のる盗賊が横行し、民衆を不安におびえさせたのもちょうどこの頃です。
関東地方や九州地方には、次の時代の政権をつかむ地方武士の台頭がはじまり、貴族政治が亡びていくきざしが見えてくる時代です。
このような社会状況の中で、宮廷の貴族たちは、政治の堕落、破綻は、末法到来によるものと考えていたようで、これは彼らにとってかなり深刻な問題だったのです。当時の記録や日記類は、いっせいに末法到来について記しています。
仏教は、わが国に伝わって以来、国家の体制を固めるための貴族・官僚のモラルとして使われたり、鎮護国家や疫病平癒・戦勝祈願など、現世利益の信仰の対象となったり、哲学・学問として発展するなどさまざまに変遷してきましたが、この当時の貴族たちにとって、仏教の現世利益と来世往生をたのむ極めて私的なものというように理解されていました。
目前に迫った末法到来によって、仏教の救済から見放されることは必然です。恐怖と絶望しかない人を救うには、これまでの南都北嶺の仏教とは別に、新しいスタイルの信仰が是非必要になりました。このために新しく唱えられるようになったものに、阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生したいとする浄土信仰(法住寺・法界寺・平等院など)、霊験所を巡礼する観音信仰(西国三十三ヶ所・四国八十八ヶ所巡礼など)、弥勒の出現に期待をかける弥勒信仰などがあります。
弥勒菩薩は、釈迦の予言によって釈迦の入滅後五十六億七千万年の後、如来となって人間界に出現し、その間に救われなかった多くの衆生に法を説いて救うため、今、兜卒天という浄土で修行の最中であると信じられているのです。弥勒信仰は、末法の時代に生まれてきてしまったため、釈迦の救済からはもれてしまい、一時は地獄に堕ちてしまうかもしれないけれど、たとえ五十六億七千万年の後でも、必ず如来となって出現する弥勒さんを待って救われたいと願う、じつに気の長い信仰です。弥勒如来に救ってもらうためには、ただ待つだけではなく、それなりの功徳を積んでおかなければなりません。それには、法華経を写経して、これをタイムカプセルの中に入れ、地中に埋めておくのです。こうしておけば、やがて弥勒如来が出現したときに、これを見つけてくれて、もしそのとき自分が地獄の責苦に堕ちていたとしても、きっと写経の功徳に免じて救ってもらえるに違いないというのです。一字一字精魂かたむけて写経し、美しく飾った筒に収め、さらに壷に入れてしっかりと蓋をして地中に埋め、盛り土をして塚を築いたのです。これを埋経といい、この塚を経塚と言います。塚の中の写経は、必ず弥勒如来に見つけてもらわなければならないものなのです。
埋経は、中国で九世紀中頃、仏教が弾圧され衰微したときに、仏教の復活を信じていた熱心な僧侶たちによって行われたことがあります。わが国では、末法到来の十一・二世紀頃、比叡山の僧によってはじめられ、この指導によって流行したのです。
藤原道長が、吉野の金峯山に経塚を営み、たくさんの写経を納めたのは有名です。その後、この風習は各地に伝わり、東北地方から九州地方まで、たくさんの経塚が営まれました。
経筒、外容器、経塚壷などは、このタイムカプセルなのです。五十六億七千万年の後、弥勒如来に見つけてもらうために埋めたものなのです。僅か千年余りで、掘り出されてしまっては困るのです。たとえ研究のためだと言っても、末法到来を悲壮な思いで迎え、命がけで写経をし、塚を築いた当の本人にしてみれば、今、その容器や経巻が、博物館で一般に公開されているなどということを、もし知ったら、どんなにガッカリするだろうなと思いませんか。
経筒、経筒外容器、経塚壷などは、日本各地から出土します。無釉のもの、釉薬の施されているもの、美しい牡丹唐草などが線彫りで施されていたり、印を押した文様のもの、単純な線文様のもの、或いは、年号や人名、製作の目的などが記されているものなどがあります。いずれも信仰のために心をこめて作られたもので、端正で大変美しく、昔から数寄者たちに茶室や客間などの花入れなどとして珍重されてきたようです。また年号や人名などが記されていることなどもあって、陶磁史の研究の上では特に大切な意味があり、重要文化財などに指定されているものも珍しくはありません。
三筋壺は、やや胴長の壺の肩から胴にかけて単線または複線の筋が三段にへら描きされていて、口頸部を一段ととして、肩から底部へ筋ごとに全部で五段に分けられ、それぞれが宇宙の万物を構成する地、水、火、風、空を表している仏教的な意味が込められていると言われています。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 茨城県常陸太田市美里町 |
![]() 茨城県日立市 |
![]() 茨城県日立市2 |
![]() 茨城県日立市3 |
![]() 茨城県日立市4 |
![]() 茨城県日立市5 |
![]() 栃木県黒磯市 |
![]() 栃木県黒磯市2 |
![]() 栃木県黒磯市3 |
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![]() 群馬県水上町 |
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![]() 群馬県前橋市2 |
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![]() 群馬県某所 |
![]() 埼玉県東松山市 |
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![]() 神奈川県横浜市2 |