陶芸家 江口滉
備前
備前焼は、岡山県備前市伊部を中心に、平安時代末期ころから現代まで連綿と作り続けられてきた焼き締めの陶器です。これまで説明してきた六古窯のうち、瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波の諸窯が、古代末に猿投窯で開発された灰釉陶器の技術を基に始まった瓷器系のやきものであるのに対して、備前焼だけは,須恵器の技術を継承して発展した須恵器系のやきものです。
瀬戸内海の沿岸、山陽路には「スエ」と発音する地名が少なくありません。文字では須恵・須江・陶・末などがあてられていますが、これらの地名のあるところには古代の須恵器の窯跡があります。
五世紀の中ごろ、須恵器作りの技術は朝鮮半島から大阪の泉北丘陵に伝えられました。ここで須恵器つくりが始まったころからしばらくの間は、ここで作られた製品が需要に応じて各地に運ばれていましたが、やがてこの技術は拡散して、方々に須恵器の生産地ができました。山陽地方で須恵器つくりが始まったのは、六世紀前半ころのことだと考えられています。
備前地方では、これまでに数多くの須恵器の窯跡が知られていますが、最も大きなまとまりのある窯跡群は備前市・邑久郡長船町・牛窓町など吉井川左岸一帯の丘陵地です。ここは、邑久古窯群と呼ばれていて、今までにおよそ九〇基の窯跡が確認されています。
古代のことを調べようとすると、必ず登場する書物の一つに「延喜式」と呼ばれるものがあります。十世紀のはじめころに編纂されたもので,律令政治の法律施行規則集のようなものです。この中の「主計」と言う部分に、全国各地から都へ運ばれた貢納品の種類や数量が詳しく記されています。この延喜式によると、備前国から都へ納められることになっていた須恵器の種類と量は、河内国のそれを凌ぐ全国一位ということになっていました。
備前国は、以前に説明したとおり、弥生時代の末期には、後の埴輪につながる特殊器台を持つ独特の古墳が造営されていたことなどから、かなり強大な政治権力が確立していたことが伺えます。言い換えると、備前国では、早くから先端技術の導入や発展に熱心に取り組んでいて、須恵器の生産地として他を凌駕する実力があったのだと想像されます。
平安時代は、桓武天皇が平安遷都をした七九四年から、平家一門を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開いた一一九二年までのおよそ四〇〇年間を言います。平安時代というと、その言葉の響きから王朝文化が華麗に展開した平和な時代を想像しがちです。ところが、華やかな時期はごくわずかで、実際は戦争や反乱、地震、大風、洪水などの人災や天災がたびたび起こっていました。特に後半は、次の武士の世に移る胎動とも言うべき数々の予兆が現れてかなり不安定な側面もあったのです。
奈良時代から平安時代初期までの繁栄を支えたのは、律令体制という中央集権的な国家の仕組みでした。平安時代の最初期を過ぎた九世紀ころになると、藤原氏が天皇に代わって政治の実権を握る摂関政治が始まりました。有力な貴族や寺院は、全国各地で田畑の開墾に力を注いで、競って私有地の拡大を図りました。これらの私有地を荘園と言います。荘園の拡大に伴って農業技術の改良が進み、生産力は飛躍的に伸び始めました。農業の発展は、流通経済の発達を促し、商人たちの活躍の場を広げます。一方、荘園の安全な管理をめぐって武力が必要となり、武士階級が登場します。
このように古代の終わりから中世にかけては、激動とも言うべき時代の変革が見られたのです。やきもの作りも時代の変化に無関係ではありませんでした。
備前地方の須恵器つくりは、平安時代の中ころ、律令体制が崩れて税としての需要がなくなり、急速に衰えてしまいました。一時、衰微した須恵器つくりは、平安時代の末期ころ、伊部周辺の医王山、不老山などの山麓に移り、須恵器窯とほとんど同じ構造の窯を築いて新しいやきものつくりを始めました。このとき作られた製品は、近隣の庶民の求めに応じた壷、甕、鉢、碗、小皿などで、貢納品として祭祀品的だった須恵器に対して日用品が主流となりましたが、技術や雰囲気は依然として須恵器の延長線上のものでした。
鎌倉時代中期以降になると半地上式の窯の構造に変わりは見られませんが、焼き方の変化が現れました。酸化焼成による、いわゆる備前焼らしい赤褐色のものが現れたのです。
製品の販路は備前国が中心ですが、幾分は近国へ搬出されたようで、福山市、尾道市、高槻市、京都市などで壷や甕の破片が出土します。
鎌倉時代の備前焼を紹介するときによく使われる絵画資料に「一遍聖絵」があります。踊念仏(時宗)の開祖として活躍した一遍上人の行状を描いた絵巻物で、伊部の西方約八キロほどの場所にあった福岡の市(現・長船町福岡)のにぎやかな風景が描かれています。一遍上人が若い武士たちに言いがかりをつけられようとしている場面です。周囲には五棟の小屋があって、種々の商品が並べられています。手前の小屋には備前焼の大壷が並んでいます。
室町時代の前半以降、備前焼は「落としても割れない」とその堅牢さが評判となり、需要は飛躍的に伸びました。この頃から、窯は製品の出荷に都合の良い山麓に築かれるようになり、窯の数は少なくなりました。これは、大量生産、大量出荷の時代を迎え、これに適応するため、業界の整理統合を行い、窯の大きさを幅約三メートル,長さはおよそ四十メートルと大型のものとして、効率の良い生産体制を確立したのでした。
近年の発掘調査によると、このころの備前焼の製品の分布は、瀬戸内海沿岸だけでな
く、近畿地方から九州地方までの広い範囲に及び、特に寺社や城郭で盛んに使われて
いました。
そのうちの一例として、和歌山県の根来寺は、十二世紀中ころに高野山から分かれて真言宗の学問寺として創建されました。中世の後半、この寺は大変栄え、全盛期には堂塔の数が二七〇〇余、山内には常時六〇〇〇人以上の人々が生活をしていて、寺領は七十二万石に匹敵するほどの勢力を誇っていました。ところが、天正十三年(一五八五)秀吉による紀州攻めのとき、焼き討ちに遭い、ごく一部の建物を残して殆ど全部を焼失してしまいました。そしてその後は、長い間かつての繁栄はすっかり忘れられていました。偶々、昭和五十一年(一九七六)付近の農道整備に伴って寺域の一部の発掘調査が行われて、中・近世の様子を知る手がかりとなる多くの遺構や遺物が見つかりました。
この調査で注目されたのが「埋甕遺構」です。越前朝倉氏の一乗谷遺跡にも同じような遺構がありましたね。この埋甕遺構は、地面に深さ五〇~六〇センチほどの穴を掘り、大甕を並べて据えつけたもので、中には大甕を地下室に据え、上階は米蔵となっているものもありました。埋甕遺構の大甕はほとんどが備前焼で、大人が一人入れるほどの大きさがあります。これまでの調査の結果、秀吉による焼き討ちの直前まで、根来寺全域には備前焼の大甕が二〇〇〇個以上あったと考えられています。
この当時、備前焼は一度の窯焚きに一ヶ月以上も時間がかかり、雑器とはいえ、決して安いものではありませんでした。これほど沢山の大甕には何が蓄えられていたのでしょう。大甕の内部や肩部に付着していた黒い物質を分析したところ、これはエゴマを絞った灯油らしく、根来寺の繁栄の証のひとつであったと思われます。
中世全般を通して壷・甕・すり鉢などの日常雑器を生産していた備前窯に、室町時代の後期になるとわび茶の流行に伴って茶陶としての価値が見出されるようになりました。茶陶については後に稿を改めて説明する予定です。
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