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瀬戸

 

 近畿地方から東の方では、日常生活に使うやきもののことを「セトモノ」と呼び、九州とその周辺の人々は「カラツ」または「カラツモノ」と言うようです。これは瀬戸と唐津のやきものが、それぞれの地域の人々の生活に深く浸透している証でしょう。

 愛知県の瀬戸地方は、中世以来今日までおよそ八〇〇年間(近世の一時期を別にすると)日本のやきもの生産の先進地域として、その主流を一貫して歩み続けてきました。

 『瀬戸』を辞書で引いてみると、①両側から陸地がせまっている小さな海峡 ②川の幅の狭くなっているところ とあります。愛知県瀬戸市はこのような条件の当てはまらないところです。実業家であり、瀬戸焼の研究家であった本多静雄さんは、瀬戸の地名の起こりを「陶所(スエト)が訛ったのだろう」と説明しておられます。

 瀬戸焼の始まりは、猿投窯の技術を受け継いだものであることは当然としても、平安時代の末期から鎌倉時代初期頃に、須恵器の技術と全く異なった、重厚な姿に軽快なタッチの線彫りの文様が施され、美しい釉調の施釉陶器が突如出現したのです。何故、瀬戸地方に突然このようなやきものが出現したのかを明確に説明できる資料はまだ見つかっていないようです。

 平安時代の末期頃には、南宋との貿易による陶磁器、とりわけ青磁の輸入は盛んに行われていました。これらは主に上流の貴族や寺社の占有物でした。この高価な舶来品の技術を学び、同様の国産品を作りたいと望む気運は、焼き物つくりに携わっている人たちの間では、十分盛り上がっていたことでしょう。

『鎌倉時代の初期、道元禅師(曹洞宗・永平寺の開祖)が中国へ留学したときに、随員の一人として共に中国へ渡り、道元が禅の修業をしている間、焼き物つくりの修行を積んだ加藤四郎景正が、帰国後、尾張の瀬戸に窯を築いて中国風のやきものつくりを始めたのが瀬戸焼の始まりである。』という伝説があり、瀬戸市内の深川神社には陶祖として祀られています。ところが近年の研究では、景正が伝えたとされる中国風の製陶技術は、それ以前にさかのぼることが判ってきて、この伝説は瀬戸焼の業績を讃え、その地位を誇りにするために創り出されたものであると考えられています。加藤景正がいたか否かはともかく、この当時、青磁の製法を伝える努力をした人物がいたことは確かなことでしょう。

 

 前回から「瀬戸」の説明を始めましたが、ここで取り上げるのは、一般に「古瀬戸」と呼ばれているものです。古瀬戸は鎌倉時代の初期(十二世紀)から室町時代の後半期(十五世紀末)までのおよそ三百年間に、愛知県瀬戸市を中心とした地域とその周辺で作られたやきもので、この当時、わが国で作られたやきものの中では、唯一釉薬の施されたものを言います。

 古瀬戸焼成が開始された鎌倉時代初期には、前の平安時代から作られていた無釉の山茶碗も引き続きやかれていましたが、これは古瀬戸の範疇には入れないことになっています。また、「古瀬戸」と書いて「フルセト」と呼ばれるやきものがあります。これは次の時代以降につくられた茶入れの作風の一つをさす言葉で、ここで問題にするものではありません。

 古瀬戸の、釉薬は黄土色の貫入のある灰釉と、灰釉に鉄分を混ぜて作られた黒色、飴色、赤褐色などを帯びた、一般に天目釉と呼ばれている鉄釉の二種類だけです。

 窯は平安時代以来の窖窯で、丘陵の傾斜地に、長さおよそ八~一〇メートル、横幅一.五~二メートルほどの地下煙筒形単房のもので、焚き口の奥に分焔柱があります。室町時代の中頃からは、半地上式となり、窯の上半分が地上に現れました。

 形を作る技法は、前半期は粘土紐を輪積みにする紐つくりで、後半にはロクロによる水挽きが行われました。須恵器が作られていた時代には水挽きが行われていたのに、古瀬戸で紐つくりになったのは、技術的に後退したように見えますが、製品の全体が施釉陶器になったことで、焼く温度が高くなり、ロクロによる水挽き成形では焼いている間に破損してしまうことが多くなり、紐つくりの堅牢な作り方にかえらざるを得なかったためだと考えられています。後半期の、室町時代中頃からは、紐つくりが少なくなって、ロクロによる水挽きが復活しました。これは窯の改良が進み、半地上式の窯が使われるようになったために、窯の側壁に色見の穴を設け、窯の中の様子を観察しながら焼くことができるようになり、ロクロつくりの薄手のものも釉薬が熔けるまでを安全に焼けるようになったためだと考えられます。

 

 古瀬戸が作られていた三百年間を、およそ百年間ずつ三期に分けて眺めてみます。

 前期は、鎌倉時代が成立した十二世紀から、元寇の役のあった十三世紀後半までです。古瀬戸の成立を代表する製品は四耳壺(シジコ)です。四耳壺と言うのは、肩の部分に4ヶ所耳状の突起が付いている壷のことで、蓋が動かないように、耳に通した紐で固定したものと考えられています。耳が三つのものを三耳壺、二つのものを双耳壺と呼びます。

 やや遅れて、小型の瓶子(ヘイシ)、梅瓶(メイピン)、水注、片口、おろし皿などが作られました。梅瓶は、口が小さく肩が張って胴裾に向かって次第にすぼまる形の瓶で、かぶせ蓋がついています。「梅の枝を挿すのに都合が良いから」とか「小さい口径を「梅の痩骨」と呼ぶのに由来するとも言われています。おもに酒徳利として使われていたと考えられています。

 前期の後半には、平底の碗や深皿、入子、合子、小形の仏花器なども作られましたが、生産量の主体は四耳壺、瓶子、水注など大形の壷類でした。

 中期は、鎌倉幕府の支配力にかげりが見えはじめた十三世紀末期から、南北朝を経て室町幕府が成立した十四世紀中頃までです。生産の主体は、前半の大形の瓶、壷類や花瓶、香炉など仏教関係の器種で、後半になると天目茶碗、平碗、小皿類、柄のついた片口など食器類が増加します。

 後期は、室町幕府成立期の十四世紀後半から、応仁の乱が鎮まって東山文化の幕開け期、十五世紀後半頃までです。この頃になると、従来の小皿や鉢、瓶子などのほか甕が登場します。そして後半にはすり鉢、土瓶、釜など庶民のための日常の厨房器具が作られるようになりました。

 時代の変遷、政治体制の変化に伴って、瀬戸で作られた製品にも変化が見られる一方、作られた製品の消費地にも移り変わりが見られます。前期から中期前半にかけての製品は、地元の東海地区を中心に中世の墓から出土することが多く見られます。また、一般消費地は当時の政治の中心地であった鎌倉に集中しています。窯の操業には、幕府の保護、奨励、介入があったと想像できます。中期後半からは、鎌倉遺跡からの出土は減少し、各地の都市遺跡、港湾遺跡、城館遺跡などからの出土が増加し、北海道から九州・沖縄までの極めて広い範囲まで流通していたことがわかります。

 

 古瀬戸の器形や装飾の技法は、もともと中国陶磁のマネからスタートしたものですが、やがて古瀬戸独特の器形や文様が創りだされました。

装飾の最も一般的な手法は、一、小さな花や唐草風の文様を刻んだ印判を押し付けた印花文。二、ヘラやノミ状の道具を使って草花など線彫りで描いた画花文。三、粘土紐や小さな粘土粒を貼り、その上から印判を押した貼花文。四、櫛状または鋸歯状の道具で引っ掻いた文様を施した櫛描文の四種類です。これらの文様の題材は、丸、角、菱、十字、格子、連珠、点列などの幾何学文様、牡丹、蓮、菊、梅、松、椿、柳、唐草、葵などの植物文様、魚、蝶などの動物文様などがあります。

写真①は「画花文広口壷」と呼ばれているもので、古瀬戸を代表する優品の一つです。鎌倉市にある覚園寺の開山、心慧知海和尚の供養塔の下から出土した蔵骨器だったのですが、今では重要文化財に指定されています。器面いっぱいに伸びやかに草花の文様が描かれていて、豊かな雄勁さを見せています。この壷は中国南宋時代に流行した酒会壺(写真②)の形を真似て作られたと考えられています。胴部の中ほどに突帯を巡らせていますが、これは二回に分けて形を作ったときの胴接ぎの部分です。

写真③は「鉄釉印花文仏花器」です。仏花器も古瀬戸の全期間を通して、四耳壺や瓶子とともに最も代表的な器種のひとつです。口縁の広がった長めの頸部と丸い胴部、台脚の三部分からなり、長い頸の両側に耳環が付けられているのが普通です。下膨れの胴部には印判による花文様が押し付けられて施されています。花弁は菊なのか蓮なのか、良くは判りませんが、花弁を取り巻く唐草風の葉模様も軽快でリズムを感じさせる佳品です。

写真④はたてがみ部に櫛目文を巧く利用した「灰釉狛犬」です。千利休が頭部を打ち割って香炉に仕立てたと伝えられていて、共箱には小堀遠州の筆跡で「利休所持」と書付があるそうです。これも重要文化財に指定されているものの一つです。

 

 

六古窯
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

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栃木県黒磯市2

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栃木県黒磯市3

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栃木県市貝町

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栃木県那須市

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栃木県那須市2

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栃木県那須那珂川町

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栃木県宇都宮市

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栃木県益子町

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群馬県渋川市

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群馬県水上町

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群馬県水上町2

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群馬県前橋市

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群馬県前橋市2

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群馬県前橋市3

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埼玉県嵐山町

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群馬県某所

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埼玉県東松山市

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埼玉県東松山市2

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埼玉県浦和市

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群馬県岩槻市

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埼玉県岩槻市2

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埼玉県長瀞町

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東京都某所

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東京都某所2

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神奈川県小田原市

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神奈川県小田原市2

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神奈川県茅ヶ崎市

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神奈川県茅ヶ崎市2

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神奈川県茅ヶ崎市3

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神奈川県横浜市

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