陶芸家 江口滉
珠洲
能登半島の先端に、人口が二万人余りの珠洲と言う市があります。ここに、六古窯と呼ばれた諸陶業地が活動を始めたのと同じ頃の十二世紀後半(平安時代末期)から、十五世紀末(室町時代後期)にかけて、中世日本を代表する独特の焼き物がありました。これを珠洲焼といいます。
もともとこの地域には、多くの陶片が出土する場所があり、これらの地区は瓶割坂、瓶ヶ谷、窯の前、窯野などという通称で呼ばれていました。地元の郷土史研究会による窯跡の分布調査や出土品の丹念な検証の結果、一九六〇年代になって、これらの地区に残っている窯跡は、古代須恵器の窯とは違って中世社会に出現した窯であることが明らかにされました。
珠洲焼は、成形方法も焼成方法も須恵器の技術をそのまま受け継いだやきものでした。形作りは、まず回転台の上に底の部分を作り、その周囲に粘土紐を巻き上げて、大体に形を作ります。次に全体を叩き締めながら形を整え、口縁部は回転台をまわしながら仕上げるという方法です。焼成は、分焔柱のない須恵器の窯を大きくしただけの窖窯で、還元焼成また燻べ焼によって、灰黒色に焼き上げるという、これも須恵器と全く同じ方法だったのです。ところが作られる製品は、他の諸窯と同様に、当時の民間の需要に応じた、貯蔵容器としての甕、壷と調理用具としてのすり鉢、それにわずかに宗教関係の用具などです。
他の地域では、窯の改良が進み、酸化焼成による堅牢な陶器が作られていた時代に、ここには少し時代遅れのやきものが三〇〇年余も作り続けられていたのは不思議なことです。しかも、ここは日本海側に開けた港に恵まれていた立地上の利点があって、製品は海運によって富山湾の沿岸から、一時は、青森や北海道にまで販路を広げていたこともあったのです。ところが、十五世紀の後半には急速に衰え、間もなく廃絶してしまいました。その理由は、越前や常滑などが、分業や窯の大型化などで生産性を向上させていったのに対抗する力がなかったことと、ちょうどその頃戦国乱世となり、生産や流通を保護奨励するはずの領主たちの勢力が極めて不安定となり、流通圏を確保できなくなったことなどが考えられます。現在、この付近には窯跡が四〇基ほど見つかっていますが、生産の期間や流通した量を考えるともっと多くの未発見の窯があるかもしれません。
一目でそれと判る個性の強い叩き紋が珠洲の壷の特色です。形を整えるときに、外側から叩き付ける板に刻み込まれた文様が、波状に、または綾杉状に波打って軽快なリズム感を誘います。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 茨城県常陸太田市美里町 |
![]() 茨城県日立市 |
![]() 茨城県日立市2 |
![]() 茨城県日立市3 |
![]() 茨城県日立市4 |
![]() 茨城県日立市5 |
![]() 栃木県黒磯市 |
![]() 栃木県黒磯市2 |
![]() 栃木県黒磯市3 |
![]() 栃木県市貝町 |
![]() 栃木県那須市 |
![]() 栃木県那須市2 |
![]() 栃木県那須那珂川町 |
![]() 栃木県宇都宮市 |
![]() 栃木県益子町 |
![]() 群馬県渋川市 |
![]() 群馬県水上町 |
![]() 群馬県水上町2 |
![]() 群馬県前橋市 |
![]() 群馬県前橋市2 |
![]() 群馬県前橋市3 |
![]() 埼玉県嵐山町 |
![]() 群馬県某所 |
![]() 埼玉県東松山市 |
![]() 埼玉県東松山市2 |
![]() 埼玉県浦和市 |
![]() 群馬県岩槻市 |
![]() 埼玉県岩槻市2 |
![]() 埼玉県長瀞町 |
![]() 東京都某所 |
![]() 東京都某所2 |
![]() 神奈川県小田原市 |
![]() 神奈川県小田原市2 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市2 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市3 |
![]() 神奈川県横浜市 |
![]() 神奈川県横浜市2 |