陶芸家 江口滉
桃山の茶陶12 楽焼1
前回までのお話を一旦お終いにして、もう一度時代をさかのぼることにします。
織田信長が天下を制圧して上洛して以降、都では荒廃した町の復興事業が始まりました。
信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、町の復興に加えて聚楽第や伏見城などの建築に力を注ぎました。都には、石工、大工、左官、指物師、瓦職人等々これらの工事に携わる大勢の職人たちが働いていました。
このような中に、阿米也(あめや)と比丘尼(びくに)と呼ばれる夫婦とその息子の長次郎という瓦職人がいたと伝えられています。この長次郎が楽焼の創始者です。
楽家に伝わる文書によると「楽家の興りは唐人阿米也で、長次郎はその息子である」と記されています。唐人というのは、中国人か朝鮮人か良くは判りませんが、阿米也は、楽焼の基本的な技術と見られている中国明代に作られた素三彩というやきものの技術を伝えた人ではないかとも考えられています。
素(そ)三彩(さんさい)というのは、素地に磁土が使われている三彩のことです。白磁の素地を焼き締めて、その上に鉛釉と顔料による、主に黄色、緑色、紫色の釉薬で文様を描き、低い温度で焼き付けたものです。
また、これと良く似たものに交趾(こうち)焼きというのがあります。交趾焼きは、中国華南地方で焼かれた三彩陶磁のことで、素地は磁土と陶土の両方があります。(交趾は、現在のベトナム南部をさす言葉です。)
素三彩も交趾も、当時の日本にはまだなかった華やかなやきもので、漸く平和の訪れた都の人々の間では大いに歓迎されたと想像できます。
この三彩の一部が、長次郎によって楽焼へと進展したと考えられます。また一方、後に尾形乾山(けんざん)を経て、京焼の技法の一つとして発展しました。(これは後に説明します)
桃山時代から江戸初期にかけて、京都に押(おし)小路(こうじ)焼きという焼き物作りがありました。これは、素三彩や交趾焼きを写したようなもので、これらの技術を取り入れて、輸入品のコピーを作っていたのだろうと思います。
東京国立博物館に長次郎が作ったと伝えられる「二彩瓜文平鉢」があります。地には緑釉が、瓜には黄釉が施されて、明らかに交趾焼きの技法を倣ったものです。楽焼の創立期の様子を知る貴重な資料の一つです。
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