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桃山の茶陶3

 

 室町時代の後半、十五世紀末頃から、瀬戸・美濃地方では窯構造の改良が進みました。改良された窯を「大窯」と言います。それまでの窖窯が地面を掘り下げて作られていたのに対して、大窯は燃焼室(焚口)の一部が地下に掘り込んで作られているほかは、焼成室や煙道が地上に築かれました。この窯は燃焼室と焼成室の間の部分に最も大きな技術的な工夫が見られます。焚き口の奥にある大きな分焔柱によって分けられた焔は、さらに左右に設けられた小さな分焔柱によって細かく分けられて、昇焔壁に当たって上昇し、一段高く設けられた焼成室にムラなく流れ込みます。このような構造上の改良によって温度のコントロールが容易になり、熱効率が良くなりました。また、焼成室が地上に築かれたことで、焼成室の側壁に出入り口を設けることができて、窯詰めや窯出しの作業がやり易くなりました。窯内の床面積が広くなったこともあって、大量生産ができるようになったと同時に、施釉陶器は匣鉢に入れて焼くことが基本となり、高級品を作ることも目指しました。

 窯の構造が変化したとともに製品の内容にも変化が見られます。前の時代から継続して作られてきたのは天目茶碗や茶壷など茶陶の一部で、蔵骨壷や仏器類は消滅の一途をたどりました。そして新しく加わることになったのは、中国から輸入された染付けなどの食器類を模倣しようとして、彩色の変わりに印花を施した高級施釉陶器の飲食器類です。

 美濃地方で茶の湯のためのやきものが作られた最初は、十五世紀頃から始まった天目茶碗が源流だと言えます。これは輸入品の建盞等をモデルにしたコピーを作ろうとしたものでした。桃山時代になると、わび茶は爆発的ともいえるほどの流行を見せました。これに伴って作られるようになった茶陶は、形も色も従来のものとは全く異なったわが国独特の美意識に基づいた和物茶陶、すなわち瀬戸黒、黄瀬戸、志野(織部)などです。

 ところで、瀬戸黒と黄瀬戸には「瀬戸」と言う地名がついています。『瀬戸からやってきた黒いやきもの・黄色いやきもの』と言うほどの意味です。ところがこれらは瀬戸で作られたものではなくて、美濃(多治見市とその周辺地域)で作られました。

 愛知県瀬戸市とその周辺にある窯場と岐阜県多治見市とその周辺の窯場は、ほとんど地続きで、瀬戸と美濃は長い間同じエリアだと理解されていたと考えられます。さらに、前回説明したとおり、昭和のはじめ頃まで、美濃地方での陶業の実態が良く判っていなかったため、瀬戸で作られたのだろうと半ば信じられていたことによるのです。

※窖窯の構造は、二〇〇四年八月一日号灰釉陶器三を参照してください。

桃山の茶陶
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

茨城県常陸太田市美里町

茨城県日立市

茨城県日立市

茨城県日立市2

茨城県日立市2

茨城県日立市3

茨城県日立市3

茨城県日立市4

茨城県日立市4

茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市3

栃木県黒磯市3

栃木県市貝町

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栃木県那須市

栃木県那須市

栃木県那須市2

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栃木県那須那珂川町

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栃木県宇都宮市

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栃木県益子町

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群馬県水上町2

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群馬県前橋市

群馬県前橋市

群馬県前橋市2

群馬県前橋市2

群馬県前橋市3

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埼玉県東松山市

埼玉県東松山市2

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群馬県岩槻市

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埼玉県岩槻市2

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埼玉県長瀞町

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東京都某所2

東京都某所2

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神奈川県小田原市2

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神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市3

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神奈川県横浜市

神奈川県横浜市2

神奈川県横浜市2

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