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桃山の茶陶9 織部1

 

 佐賀県唐津市の南へ約一〇㌔ほどの所に、岸岳という標高がおよそ三〇〇㍍の山があります。ここは、十二世紀以降、北九州から朝鮮半島の沿岸域一帯で倭寇として勢力を誇っていた松浦党の領袖波多氏の居城のあった所です。波多氏は、中世初頭からおよそ四〇〇年間、このあたり一帯を領有していましたが、豊臣秀吉の島津征伐(一五八七)のとき、協力しなかったことが原因で、後(一五九四)になって突然改易され、滅亡してしまいました。

 この岸岳の山麓に、わが国最初の登り窯の跡が数ヶ所あります。この窯の構造は、竹を縦に割って伏せたような形から、割り竹式登り窯と呼ばれているもので、朝鮮半島の北部から伝えられたと考えられています。この窯は、一五八〇年~一五九〇年頃、波多氏の保護の下に操業していましたが、波多氏の滅亡後、陶工たちは離散したと見られます。

 ところで、一六八六年に書かれた美濃久尻村・岡田某の奥書のある『瀬戸大竈焼物並唐津竈取立之来由書』という古文書があります。この文書には次のようなことが書かれています。「あるとき、唐津から美濃へ来ていた森善衛門という浪人が、久尻村の加藤景延の窯を見て『この窯の熱効率が悪いのは惜しいことです。是非、唐津の窯を見学においでなさい』と誘った。早速、景延は唐津へ赴き、窯を観察して戻り、新しい窯を築いた。その後この窯が基となって近隣に広がった。」

 加藤景延によって導入された窯は、現在の土岐市和泉町久尻にある元屋敷の連房式登り窯で、築窯は一六〇〇年前後だと考えられています。

 この窯で創りだされたのが「織部」です。この頃から、半地上式穴窯で焼かれていた志野は徐々に衰微し、織部の時代がスタートすることになるのです。陶工たちは、新しい窯が導入されてからも志野を焼こうとしていました。しかし、窯の形式が変わり、熱効率の良さとは反対に志野特有の温かい釉調は崩れ、単調な透明釉になってしまったのです。このため、鉄絵の描線は繊細な表現ができるようになりました。織部は、瀬戸黒茶碗の黒釉や歪み、黄瀬戸の銅緑釉、志野の長石釉と鉄絵付けなどそれぞれの技法を総合して創りだされたものです。

 

 

 

桃山の茶陶
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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