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桃山の茶陶6 志野 

 

 日本のやきものの名称の中には、その由来のあいまいなものが少なくありません。「志野」もそのひとつです。室町時代の末期に活躍した香道の志野宗信という人が好んで使った茶碗を、周囲の人々が『志野の茶碗』と呼んだことで名付けられたと言うのが最も一般的ないわれですが、他にもいくつかの説があって、どれも決定的なものではありません。

 志野は、瀬戸黒や黄瀬戸と同じように、長い間瀬戸で作られていたと思われていました。一九三〇(昭和五)年五月、多治見市出身の陶芸家荒川豊蔵さんが偶然のことがきっかけで、多治見の北方約八キロほどの大萱というところで志野を焼いていた窯跡を発見し、その後の調査で、志野は桃山時代に美濃の窯(特に多治見市・土岐市の北方から可児市一帯)で焼かれていたことが判りました。

 志野の特色は、たっぷりと施された長石釉が、白い雪の降り積もったような、ふんわりとした光沢を持ち、その柚子肌状のポツポツとしたピンホールに緋色という薄紅色が自然ににじみ出ているところにあるといえます。志野には、もうひとつ、日本のやきもの史上初めて毛筆による文様が描かれたこと、即ち絵付けが行われたことも重要なできごとです。

 志野は桃山時代末期から江戸時代の初期までの僅かな期間に作られました。その製品は、大きく二つのグループに分けて考えることができます。

 その一つは、茶陶です。茶碗をはじめ水指、花入れ、香炉、香合、鉢、向付、水注などがあります。(これらは次回、説明します。)

 他の一つは、中国陶磁の白磁や青花、朝鮮の高麗鉄絵青磁などの影響を受けて作ったと思われる皿類で、かなりたくさん作られたようです。しかしこれらは、全国各地から発掘されることがありますが、伝世品はほとんどありません。

 志野が作られた桃山時代の末期は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ三十万余の軍隊を派遣した文禄・慶長の役の時期です。この期間、西国の大名たちはそれぞれの領地と肥前名護屋を何度も往復していました。この当時唐津は、すでに朝鮮半島から進んだ陶芸技術が伝来していて、わが国のやきものの先進地域になっていました。(後日説明します)このような中で、美濃と唐津の間には交流があり、おたがいに影響しあっていたと考えられます。中国の青花写しの皿類の中には、唐津との交流をうかがわせるものも見られます。

桃山の茶陶
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

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栃木県黒磯市2

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栃木県那須市2

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群馬県水上町2

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神奈川県茅ヶ崎市2

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神奈川県茅ヶ崎市3

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