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桃山の茶陶2

 

 応仁の乱(一四六七)をきっかけとして、およそ百年間続いた戦国乱世は、織田信長・豊臣秀吉らの登場で漸く収束が近づいてきました。織田信長が、室町幕府の十五代目の将軍足利義昭を追放して事実上室町幕府が滅亡した時(一五七三)から、徳川家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を創設したとき(一六〇三)までの約三〇年間を日本の歴史区分では「安土桃山時代」といいます。これは、信長が近江の安土に、その後秀吉が山城伏見桃山に築城したことによるのです。

 室町時代の中ごろに珠光によって始められた「わび茶」は徐々に発展し、桃山時代には千利休をはじめ、多くの茶の愛好者たちに支えられて、その絶頂期を迎えていました。

 日本のやきものの歴史を眺めてみると、やきもの作りの技術や作風などは、時代の進展とともに徐々に変化向上するばかりでなく、時には、ある外的な刺激によって突然その様相を変えることがあります。桃山時代に美濃地方に興った志野・黄瀬戸・瀬戸黒と呼ばれる茶陶の生産と京都の町の中で始まった楽焼はそのひとつであると言えます。

 美濃のやきものが、歴史の中で記録されているのは、平安時代の初期に書き残された延喜式という書物の中です。大和・河内・摂津・美濃・播磨・備前・讃岐・筑前の各地から毎年一定の数量の須恵器を朝廷に納めることが課せられていました。ところが、美濃地方(岐阜県南部)では長い間、窯跡の発掘調査が進まず、物的な実証がなかったために隣接の瀬戸の陰に隠れて、ほとんど無視されていました。従来の説では、十五~十六世紀に戦乱を避けた瀬戸の陶工たちが美濃地方へ移り住み、桃山時代の茶陶作りの基になったのだろうと考えられていたのです。これを「瀬戸山離散」と言い、長い間定説となっていました。

 昭和五年四月、多治見市出身の陶工荒川豊蔵さんが偶然のことから、大萱という所で桃山時代に志野を焼いた窯跡を発見したことがもとで、多治見市周辺でにわかに窯跡発掘ブームが起こりました。しかし、その後日中戦争や太平洋戦争が激しくなり、発掘は一時頓挫しました。このとき発掘された陶片の多くは、戦中・戦後の混乱の中で散逸してしまいました。

 戦後の復興が進む中で、市民の文化財に対する意識が向上するに従って綿密な調査が再開されることになり、近年になって美濃地方における焼物の正確な歴史が明らかかになってきました。美濃地方では、平安時代の須恵器生産から、鎌倉時代、室町時代へとほとんど途切れることなく、やきもの作りは続いていたのでした。もし、このことがもっと早くに判っていれば、小山富士夫さんが提唱した六古窯と肩を並べていたことでしょう。

 

桃山の茶陶
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

茨城県常陸太田市美里町

茨城県日立市

茨城県日立市

茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市2

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栃木県黒磯市3

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栃木県那須市2

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神奈川県横浜市2

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