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桃山の茶陶13 楽焼2

 

 楽焼は、桃山時代に始まり、今日までおよそ四〇〇年あまりの間、たった一軒の陶家で茶の湯の道具だけを専門に焼き続けてきた他に類を見ない極めて特異な焼ものです。

 『瓦職人であった長次郎が、利休の依頼(指導)を受けて茶碗を作り始めた』というのが楽焼の起こりだと言われています。長次郎と利休がいつ、どこで、どのようにして出会ったのか、このときの様子を伝える資料はほとんどありません。

 一五八〇(天正八)年十二月に利休が主催した茶会の記録に『ハタノソリタル茶碗』が使われていて、これは長次郎の作と伝えられている「勾当(コウトウ)」か「道成寺」と呼ばれている茶わんだろうと考えられて、この頃既に長次郎の茶わんつくりが始まっていたとする説がありました。しかし、これは、本能寺の変で織田信長が亡くなるより一年半ばかり前のことで、利休がまだ信長の茶頭時代のことであり、楽焼の創始には少し早すぎるとするのが現在の定説です。では、いつ頃が楽焼の始まりか。

 信長の跡を継いだ豊臣秀吉が天下人として成長を遂げ、京都に聚楽第や大仏方広寺などの建築に着手した頃、一五八六(天正十四)年十月に行われた茶会記に「宗易形の茶わん」が登場します。これが長次郎の最初に作った茶わんだろうと考えられています。

 瓦と茶わん、どちらも焼物であるという共通点のほかは、あまり交流がないのが普通です。普段、食器などを作ることのない瓦職人に茶の湯の茶わんを作らせて見よう、しかも「わび」という美意識を具体的に表現する造形物として、茶わんを作らせて見るなどという発想は、面白い?、不思議?、いや、とんでもないことだと思います。しかし、長次郎は利休のリクエストに見事に応えて宗易形の茶わんを作り上げました。二人の間にはよほどしっかりと通じ合う気持ちがあったのでしょうか?

 「楽焼」という呼び名は、長次郎が秀吉から「楽」の印判を拝領したからだと伝えられていますが、長次郎の作品には、印判の押されたものはありません。当初は楽焼ではなくて、「今焼き」とか「宗易形」などと呼ばれていました。その後聚楽焼きと呼ばれたこともありましたが、「楽焼」の名称が一般に使われるようになったのは江戸時代になって十七世紀前半頃のことです。

 今、楽家の玄関には光悦筆の「楽焼 御ちゃわん屋」の暖簾がかけられています。

 

 

 

 

 

桃山の茶陶
茨城県常陸太田

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