陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯十
新潟県
新潟県は、旧国名では越後と佐渡です。
越後で本格的なやきものが作られたのは、日本一の産出量を誇る越後金山が開発された十六世紀末(慶長年間)~十七世紀初頭のころです。当時、砂金製錬用のフイゴ(送風機)の羽口(素焼きの送風管)を製造する業者が、片手間に日用品の雑器を焼き始めたことによります。
十七世紀末(元禄時代)ころに興った釣鐘の鋳物製造が盛んになるにつれて、越後全域にやきもの作りが広がりましたが、どれも小規模のもので、特筆するほどのものはありません。
佐渡の場合も金銀山の発展に伴って、羽口屋によるやきもの作りが盛んになりました。
佐渡には無名異 (むみょうい) 焼きというのがあります。無名異は自然にあるマンガンや鉄の酸化物のことで、佐渡金山で算出する無名異は酸化第二鉄を含んだ赤土です。この粘土で作った朱泥の陶器を無名異焼きといいます。佐渡の無名異焼きは十九世紀の中ころから始まったもので、最初は楽焼風の軟質陶器でしたが、後に硬質に改良されて今に引き継がれています。このほか、佐渡には十八世紀末に始まり五代にわたって作られた金太郎焼きというやきものがありました。
富山県
一五九五(文禄五)年、豊臣秀吉は前田利家に越中、能登、加賀の三国(約百万石)の領地を与えました。その後一六三九(安永十六)年に前田家は富山に十万石の支藩を設け、明治維新まで続きました。
越中瀬戸
北アルプスの立山連峰の西麓に位置する富山県立山町には、十六世紀末に美濃・瀬戸地方から技術を取り入れた陶業地があります。これを越中瀬戸といいます。立山町の上末(うわすえ)には平安時代から鎌倉時代ころまで須恵器が焼かれていました。今も古窯跡から陶片が出土します。
一五九〇(天正十八)年ころ、瀬戸系の陶工小三郎という者が上末に窯を築きました。窯は美濃系の大窯に似た半地上式と思われ窯跡から匣鉢などの窯具とともに黄緑釉の印花紋小皿や天目釉の茶入れなどが出土します。この窯は本格的な瀬戸釉を施した陶器を焼いた日本海側の最古の窯です。この地は上質の陶土に恵まれて徐々に発展し、江戸時代の前期~中期を通して、二〇数か所の窯が操業し、越中国唯一の陶業地として繁栄しました。元禄期には茶碗・皿・鉢・徳利・燭台・油壷などさまざまなものが作られましたが、中でも野趣に富む健康な鉄釉の茶入れが人気を博しました。
越中丸山焼 八尾町の富農であった甚左衛門という人が京都で製陶法を学び、一八三〇(天保初)年ころ開窯しましたが、すぐに経営不振となりました。富山藩は藩内産業振興のため資金を貸与し、産物方の役人を付けるなど援助しました。これのよって製陶は興隆し磁器の生産にまで着手しました。最盛期には十三の窯場に五十人以上の工人が従事しました。藩は領民に対して他藩からの輸入品使用を禁止するなど地場産業振興に力を入れましたが、廃藩に伴って衰微しました。