陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯十五
愛知県
瀬戸の凋落 桃山時代から江戸時代の初期にかけて、瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部などの侘茶の茶陶生産地として繁栄を極めた瀬戸(美濃)は、古田織部の没後かげりを見せはじめました。これは織部の後を継いだ小堀遠州、金森宗和らの好みによる茶陶生産の中心が高取や京都に移り、瀬戸(美濃)への需要が激減したことがあげられます。このため、瀬戸(美濃)では、生産の中心を大衆向けの日常食器に変更しようとしていました。ところが、九州であらたに磁器が開発され、普及が進んだために、深刻な打撃となってしまいました。尾張藩では、瀬戸窯業の振興を図るさまざまな施策に力を注ぎましたが、功を奏して再び活力を取り戻すのは一九世紀初頭、瀬戸で磁器生産が開始された後のことです。
御深井焼 御深井(おふけ)焼は、名古屋城の西北にある「深井丸(ふけまる)」という曲輪の一隅で焼かれたやきもので、藩主が直接かかわったお庭窯と尾張徳川家に伝来する名品を写すなど御用窯、あるいは地場産業の指導的立場もの性格を兼ねていました。窯の創設は、一六三四(寛永十一)年、三代将軍家光が上洛の途中、名古屋に立ち寄るに際して殿舎造営と深井丸庭園整備の後、その一角にあった瀬戸山に窯を築いて、瀬戸から職人を呼び寄せ藩用の製品を作らせたということです。詳しいことは判らないようですが、途中盛衰を繰り返し、明治の廃藩まで続きました。
御深井焼の釉薬には、瀬戸で産出する千倉石(やや鉄分を含んだ長石)に木灰を加えた透明な灰青磁釉が使われ、これを御深井釉と呼びました。この他に、もみ殻灰を使った白濁釉(ナマコ釉)も使われました。
陳元贇 御深井焼初期頃の指導にあたった中国から渡来した陳元贇(ちんげんぴん)という人物がいました。元贇(一五八七~一六七一)は浙江省の出身で、一六一九(元和五)年三十三歳の時に長崎に渡ってきました。最初は萩で毛利氏に仕えましたが、一六三八(寛永十五)年尾張藩に招かれて、六十石で客分待遇となりました。
元贇が将来し、普及させたのは陶磁器だけでなく、建築、医薬、鍼灸、菓子製法、柔術などがあり、詩文や書にも長じていたと言われています。
元贇は、御深井焼に安南風の染付磁器を取り入れました。瀬戸でゴスが使われた最初です。しかし焼成の技術が十分ではなかったために、濁りの多い御深井独特のスタイルを生み出しました。本格的な染付磁器の登場は、加藤民吉(次回)の活躍を待たねばなりませんでした。
瀬戸市定光寺町には尾張藩祖徳川義直を祀った廟があります。廟は元贇の設計になると伝えられていて、建物の細部は漢式、諸堂の配置は儒教様式になっています。焼香殿の敷き瓦は元贇のデザインといわれています。この建物は本堂とともに国の重要文化財で、岡山県の閑谷黌とともに藩と地場産業のやきものとの関係を語る歴史遺構として注目されています。
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