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江戸時代の諸窯十六

 

愛知県

 加藤民吉 江戸時代中期以降、瀬戸の陶業は不況のどん底であえいでいました。尾張藩では、どうにかして正常な運営に立て直すため生産統制をおこないました。陶家一軒にロクロは一基、従事者は一人という厳しい掟でした。

 民吉(一七七二~一八二四)の家では、長兄が家業を継ぎ、次男だった民吉と父親は熱田新田の開墾に出かけていました。

 熱田奉行の津金文左衛門胤臣(一七二七~一八〇一)は、民吉から瀬戸の苦境を聞き、中国の陶磁器製法の書「陶説」による磁器染付の製法を指導しました。津金の援助を受けて民吉は一八〇一(享和元)年、熱田新田の古堤(名古屋市港区土古公園のあたり)に磁器窯を築いて磁器の試作を始めました。

 一方、瀬戸では「熱田で新しい磁器が開発されると、困窮は一層深刻になる」ということで、庄屋加藤唐左ヱ門が訴え出ました。これによって新窯は瀬戸に移築され、民吉は十六人のスタッフとともに血のにじむような実験を繰り返しました。しかし何度試みても失敗ばかりでした。

 一八〇四(享和四)年、民吉は九州の磁器製法を学ぶため、衆望を担って旅立ちました。民吉は、他領の者の侵入を決して許さない佐賀藩有田を避け、天草の東向寺(曹洞宗)の天中和尚(尾張出身)を頼って赴きました。

 民吉は、天草から平戸領の三川内皿山、北松浦郡佐々市ノ瀬皿山を巡って二年余り研修を積み、帰国途中には有田に立ち寄って上絵の技法を学び、一八〇七(文化四)年に瀬戸に戻りました。

 これを契機に瀬戸は磁器生産を中心として再び活況を取り戻しました。

 当時、有田の磁器は泉山産出の陶石単味で作られていました。ところが、三川内では単味で磁器となる陶石がないため、カオリンや長石、珪石などを調合して原料としていました。瀬戸でも単味で使える陶石はなく、主に三川内で学習した民吉が瀬戸近郊で採れる蛙目粘土や砂婆土などを混ぜて使ったことは画期的なことでした。

 また、当時肥前磁器製造は徹底した分業体制で行われていました。従業員たちは、自分の担当には詳しいが、他の分野についてはほとんど知らないという状態は、技術の漏えいを防ぐ有効な方法です。瀬戸でも取り入れられた分業による生産体制は、その後の瀬戸の繁栄につながる一因でもありました。

 民吉は瀬戸に磁器をもたらした功績から「磁祖」と呼ばれ、「陶祖・加藤景正」と並んで

瀬戸の窯神神社に祀られています。

『民吉が磁器つくりの秘法を探るため、尾張から来たことを隠し、平戸の窯元の娘を娶り、子まで授かったのに、製法を習得した後、妻子を残して瀬戸へ逃げ帰った』という伝説があり、お芝居になって上演されたこともあります。

江戸時代の諸窯
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