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江戸時代の諸窯十七

 

三重県盞

 萬古(ばんこ)焼 

古萬古 東海道の宿場伊勢桑名は古くから東西の物産の交易地で、多くの有力な商人が居を構えていました。この中の一人、豪商(萬古屋という陶器商という説)の家に生まれた沼波弄山(ぬなみろうざん)(一七一八~一七七七)は若くして風流を好み、特に茶の湯に精進していました。二〇歳の頃、茶趣味が昂じて、別荘のあった小向村(朝日町)に築窯し作陶を始めました。作品は京風、唐津風、織部風など洗練された茶陶や独自の意匠による赤絵の仙盞瓶(せんさんびん)鉢、銚子などです。赤絵の作品には異国情緒あふれる文様が描かれていることがあります。作品には「萬古」「萬古不易」の印が捺されてあることから「萬古焼」と呼ばれるようになりました。作品は人気を集め、伊勢ばかりではなく江戸へも運ばれ、ついに将軍の御用を受けることになりました。作品を伊勢から江戸へ運ぶのは何かと支障があることから、弄山は江戸に移り、向島に窯を築き、ここで作陶しました。これを江戸萬古といいます。弄山没後は後継者がなく伊勢も江戸も萬古焼は一時途絶えました。弄山の作ったやきものを、その後再興されたものに対して「古萬古」と言います。

有節萬古 弄山の没後五〇年余の一八三二(天保二)年、桑名で古物商をしていた森有節と弟の与平千秋が協力して弄山の窯跡の近くでやきもの作りを始めました。弄山の作品は異国趣味の上絵が特色でしたが、有節は純日本風の大和絵を手本とした絵付けを得意としました。また、古萬古が抹茶道具を主としたのに対して、有節は時代の要求に応じて煎茶具を盛んにつくりました。中でも木型を使って板つくりの急須は有節の発明です。この後、「萬古焼」と言えば薄つくりの急須など煎茶具のイメージが定着しました。

射和萬古(いさわ) 有節の再興が成功したのに目をつけて、南伊勢の射和で両替商をしていた竹川竹斎(弄山の妻の生家)が、一八五六(安政三)年に各地から優れた陶工を招いて製陶の経営を始めましたが、うまくはゆかずにわずか7年で廃業しました。

四日市萬古 四日市には有節より少し前の一八二九(文政十二)年頃から、信楽風の日用の食器などを作る窯がありましたが、明治になって廃業しました。その後、この土地の大地主山中忠左衛門が地場産業として再興し、有節の技法を取り入れて木型、土型を使って急須などを作りました。一時は海外輸出するほどに発展しました。時代の変遷にしたがって発展を続け、現在焼き締めの急須や土鍋の産地として知られています。

幕末には萬古焼の名声や成功に倣って伊勢に各所にいろいろなやきものが輩出しました。これらのやきものはそれぞれに異なった原料を用いて、各々新しい技法を考えて独自性を誇っていましたが、伊勢地方ではこれらを全て「萬古焼」と呼びました。言わばやきものの代名詞です。さらに、型起こしや手びねりの急須などを萬古と呼び、鉄分の多い朱泥の急須を萬古ということもあります。

 

江戸時代の諸窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市2

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栃木県那須市2

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群馬県水上町2

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埼玉県東松山市2

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