陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯十二
石川県
九谷焼2
古九谷は元禄年間(一六八八~一七〇四)に突然廃絶しました。その原因は、窯場の不便さ、陶石の不足、藩財政の悪化、指導者の死去などが考えられますが、記録がないため本当のことは判りません。元禄時代になると、肥前有田では量産体制が確立し、華やかな染錦を中心とする伊万里色絵の黄金時代が現れ、全国各地に販路を広げました。計画的な生産体制と組織的な販路を持っていなかった古九谷は圧倒的な勢力に押されて生産が続けられなくなったとも考えられます。
再興九谷
古九谷が作られなくなっておよそ一〇〇年後の十九世紀初頭、加賀藩の記録の中に「加賀、越中、能登の人々が使う唐津、伊万里、京都から運ばれてくる陶磁器が毎年三十六~七万枚にもおよび、商人ばかりが利を上げているが国費の損耗が大きい」と嘆いている記述があります。このような中で加賀藩は産業振興の一つとして金沢市内の卯辰山麓に「春日山窯」を開設しました。これがきっかけとなって、加賀領内各地に次々と新しい窯が興りました。これらの窯を「再興九谷」と言います。
再興九谷の窯は、どれも民間需要に応えることを目的に、それぞれが特色ある作風を確立し、変化に富んだ色絵の世界を展開しましたが、経済的な行き詰まり等から長続きした窯はわずかでした。代表的な窯をいくつか紹介します。
春日山窯 一八〇六(文化三)年に京都から青木木米を招いて、卯辰山麓で使われなくなっていた瓦窯を改良して藩窯として始めた窯です。しかし、二年後に金沢城が火災に遭い、藩の財政緊縮のあおりを受けて民営に切り替えられました。木米は藩との契約が実施されなかったため帰京しました。その後一〇年余は操業していましたが、徐々に衰微しました。
若杉窯 一八一一(文化八)年、能美郡若杉村の大庄屋林八兵衛が春日山窯の主工本多貞吉を招いて開いた窯です。貞吉は隣村の六兵衛山で良質の陶石を発見して使用しました。この陶石は、現在も九谷焼の原料として使われています。
一八一六(文化十三)年、加賀藩は、この窯を郡奉行の支配下に置くこととして、四〇〇〇坪の敷地に工房や宿舎まで備えた大規模な窯場を設置して、京都、信楽、平戸などから陶工を集め、特産品つくりに取り組みました。
本多貞吉没後、阿波徳島出身の赤絵屋勇次郎が絵付けの主任となって、新しい作風の展開に成功しました。藩では領内に他藩からの陶磁器の輸入を禁止するなど若杉窯の保護援助に努力しています。若杉窯の製品は、芙蓉手様式、古染付、祥瑞、青九谷様式を示す塗り埋手の色絵のほか、白釉、青 釉、るり釉、灰釉、鉄釉、緑釉などの技法が駆使され、器種は食器、台所用品、調度品、文房具など広範囲に及びました。若杉窯は幕末まで続き、藩の保護がなくなった明治になって廃絶しました。
・吉田屋窯、宮本窯等、次回に続きます。
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