陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯六
北関東の茨城・栃木・群馬三県は、北に山岳地帯、南には広大な関東平野が広がる共通した地形です。この地域では縄文土器、弥生土器、須恵器の古代の土器は作られましたが、中世以降の焼き物は作られませんでした。江戸時代後半になって漸くいくつかの窯が始められましたが、それらの多くも長続きはしませんでした。
これらの窯の中で、茨城県の笠間焼きと栃木県の益子焼は、例外のように存続していまも活躍している数少ない例です。
茨城県と栃木県の県境に沿って南北に走る八溝山地の南端、標高が五〇〇mほどの丘陵地の東麓に笠間があり、西麓に益子があります。
茨城県
笠間焼 笠間市は、古くから日本三大稲荷の一つに数えられている笠間稲荷神社の門前町として、知られる一方、笠間城の城下町としても栄え、最近では東京から近い焼き物の郷として、およそ二百軒ほどの窯が活況を呈し、多くのファンに親しまれている町です。さらに、関東地方では珍しい花崗岩(稲田御影)の採取地でもあるというさまざまな特色を持ったところです。
笠間焼は十八世紀の末頃、箱田の久野半右衛門が、滞在していた信楽の陶工長右衛門の指導を受けて窯を築いたのが始まりだと伝えられています。その後、婿養子の瀬兵衛は新たに信楽から陶工吉三郎を招いて、箱田焼と呼ばれる日用雑器を作りました。主に黒釉やモミ灰を使った白濁失透の釉薬を施した壷などです。笠間藩庁は、将来有望な藩の産業にするため、資金を貸し付けたり、役所を設けて技術を高めるなど、保護奨励に力を入れたため、大いに発展し、一時は製品が船で霞ヶ浦を経由して江戸へ運ばれるほどでした。しかし、廃藩置県後は、各窯が民窯として独自の道を進むこととなりました。
栃木県
益子焼 益子焼をはじめたのは、益子の農家大塚家に婿養子に入った啓三郎だといわれています。啓三郎は、笠間焼が藩の保護・奨励の下で発展しているのを見て、大塚家に入ったのを契機に、一八五三(嘉永六)年、益子の根古屋に窯を開きました。これ以前にすでに菊池清茂が半農半陶で焼き物つくりをしていたとも言われていますが、啓三郎の窯が、最初に黒羽藩の保護を受けることになったことから陶祖とされています。啓三郎は、笠間に居た頃交流のあった宍戸焼(相馬焼の系流)の陶工田中長平を招き、ともに操業に当たりました。
一八五五(安政二)年、黒羽藩は関東には笠間焼のほか焼き物の産地がないことに着眼して、益子に奉行を設け、各窯に五〇両もの資金を貸し付けるなど、積極的な振興を図ったので、操業は順調に発展し、製品は江戸日本橋の焼き物問屋を通して販売され、藩の財政を潤すほどになりました。
廃藩置県後、窯はすべて民営となり、相馬や会津本郷から腕のよい職人を招き、一方鉄道東北線の開通などもあって東京へのアクセスが容易になり、いっそう発展しました。特に山水画を描いた土瓶が爆発的に出荷されました。