陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯四
成島焼 米沢上杉藩の自給自足政策の一つとして始められました。最初は一七七八(安永七)年に花沢村で開窯しましたが、上手く行かず、一七八一(天明元)年、成島村に移して成功し、一時は藩の財政の一部を救うこともありました。上杉家の文書の中に「珍奇を戒め、異形を禁じ、美をいやしみ、丈夫さを尊び・・・・」とあり、質実剛健をモットーとしました。製品は甕、皿、鉢、徳利、茶碗などの日用品で黒釉、飴釉、灰釉を基にしたなまこ釉が美しく、好事家たちは山形の古唐津と呼んで珍重しています。明治の末頃に廃絶しました。
宮城県
宮城県の近世窯は陶器窯は十カ所と磁器窯は五ヵ所が知られているそうですが、代表して堤焼きと切込焼を取り上げます。
堤焼 幕末から明治にかけて堤焼に携わった庄子義忠(乾馬)が記した「堤町陶土器之由来」によると、伊達四代藩主綱村の招きで「元禄年間(一六八八~一七〇四)に江戸今戸焼きの陶器師上村万右衛門が堤町(仙台市内)に近い杉山台に開窯したのが始まり」とされています。はじめは茶道具などを中心に作りましたが、万右衛門が亡くなると一時中断しました。その後瓦窯として操業し、また、土人形を焼くなどの時期がありました。寛政年間(一七八九~一八〇一)に窯を堤街に移した後も盛衰を繰り返し、一八五五(安政二)年頃、三浦乾也(六世尾形乾山)の門弟となり乾馬と名乗った庄子義忠が茶道具を作り再興しました。堤焼は甕、大壷、仏花器、火鉢、すり鉢のほか焙烙や土弾、瓦や土人形まで多種多様な製品を作った珍しい窯と言えます。現在は四代目乾馬を名乗る針生氏によって伝統の火は受け継がれています。
切込焼 宮城県の北部加美郡宮崎町で焼かれた磁器です。
開窯年代にはいくつかの言い伝えがありますが、明確ではありません。伝世品の最古の年代記録が天保五(一八三四)年であることから、これより少し前が妥当だと考えられます。
この頃の製品は、良質の白素地と呉須が使われていて、藩御用の上手物を目指していたことがうかがわれます。最盛期は十九世紀の中ごろ(弘化・嘉永・安政)で、民間の需要に応じた製品が作られるようになりました。製品は飯碗、湯のみ、徳利、小皿、土瓶など多種多様で、中でも短頸のどっしりとしたラッキョウ徳利は切込焼を代表するものといえましょう。また、特殊なものとして切込三彩があります。洗練された器体に白、紺、青の三色の釉薬を施した落ち着きのある華やかさから「東北陶磁の華」と呼ばれたいます。