陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯三
秋田県
白岩焼 秋田佐竹藩の殖産興業の一つとして、大堀相馬焼の陶工を招いて一七七一(明和七)年ころに仙北市角館町白岩で創始したと伝えられています。製品の中心は日用の雑器ですが、藩主の注文に応じるため、京都から楽焼や赤絵の技術を取り入れて、品位の高い優れた作品を作ることもできました。製品の販路は藩外にも及び、一時は東北地方北部の最大の窯場として活況を呈しましたが、一八九六(明治二十九)年に起こった六郷地震M7.6によって壊滅的な被害をこうむって廃絶しました。
楢岡焼 大仙市南外で、幕末から現代まで焼き継がれています。窯元の小松家の伝承によれば、一八六三(文久三)年頃、白岩窯から分かれた寺内窯の陶工を招いて、この地の素封家であった小松清治が始めました。明治時代には盛況でいくつかの窯が稼働していましたが、瀬戸など先進地の製品の流入で次々と廃業が続きました。昭和になって柳宗悦が評価したことで、再び活路を見出しました。男鹿産の長石を使ったなまこ釉と鉄赤釉の下地との美しいコントラストが特徴です。
山形県
山形県には江戸時代後半に二〇あまりの窯が起こりました。これらの窯は最上庄内地域、山形市を中心とした地域、米沢市を中心とした地域に分けられます。
新庄東山焼 最上庄内地域の代表です。窯元の涌井家の資料によると、初代涌井弥兵衛は越後の出身で、大堀相馬焼でやきものつくりを学び、白岩や平清水を経て新庄戸沢藩に召抱えられ、藩の援助を得て一八四二(天保十三)年に、現在の新庄市金沢の地で開窯したと記されています。開窯当初は鉄釉やなまこ釉の土鍋、行平、甕、徳利などの日用品を作り、藩産業の一つとなりました。明治中期には二代目の弥瓶が磁器を作り、一時は染付磁器で活況を呈しましたが、鉄道の開通で先進地の製品に押されてやめました。現在は、陶器づくりの伝統を受け継いだ五代目が、地元を代表する民芸陶器の一つとして活躍しています。
平清水焼 山形市の南部に千歳山があり、その麓に平清水があります。ここは今も東北地方有数の窯場で、良質の陶土や燃料の赤松、水などが豊かで陶業地として最適です。創始年代は明らかではありませんが、十九世紀初頭に、平泉寺の境内に築窯したのが始まりと伝えられています。その後、相馬焼きの技術を取り入れるなどして発展し、セトモノより安く取引されたこともあったようです。平清水の磁器は、一八四四(弘化元)年、天草陶工の指導のもと、隣の岩波村で始められました。藩の積極的な奨励施策の結果、有田と間違えられるほどの美しい製品ができました。最盛期は明治の中期頃で、二〇数件の窯が活躍していました。