陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯七
南関東の千葉・埼玉・神奈川の各県も、北関東と同じように中世から近世にかけて本格的なやきものづくりはほとんど行われませんでした。その最大の理由は、手近に良質の陶土が無かったことでしょう。
東京都
今戸焼 江戸では中世の最終期、天正年間(一五七三~九二)の頃、下総(千葉県)の人が浅草今戸に住みついて瓦や土器をつくり始めました。(徳川氏が関東に移ってきたのは一五九〇年)
江戸時代になって白井半七と言う人が茶の湯の土風呂を作り、つづいて二代目の半七は楽焼風の施釉陶器をつくりました。これが今戸焼きと呼ばれ、人気商品となって盛んになり、窯元が十数戸になりました。土風呂を中心とした茶道具つくりは長く続きましたが、関東大震災の後、急激に衰えてしまいました。
白井家は代々半七を継承して、四、五代の頃から伏見人形に似た土人形をつくるようになりました。この土人形は現在も浅草の郷土玩具として作られています。
お庭焼
江戸市中でつくられたやきものにお庭焼があります。
十七世紀の中ごろ、尾張藩主が上屋敷(現新宿区市ヶ谷)に瀬戸の陶工を呼び寄せて始めた楽々園焼が最初だと言われています。後のこの窯は下屋敷(新宿区戸山)に移されました。また、江戸城内吹上御苑で、五代将軍綱吉が始めた千代田焼や、松江藩主松平治郷(不昧公)の大崎お庭焼(品川区大崎)などが知られています。
これらお庭焼は、有力大名たちの道楽として藩邸内で作られたもので、一般の市場に出回ることはありませんでした。
尾形乾山
尾形乾山は、一七三二(享保十七)年に上野寛永寺宮公寛法親王を頼って江戸へ来ました。このとき乾山は七〇歳で、入谷坂本(現台東区)に窯を築いて制作を始めました。一七三七(元文二)年には下野(栃木県)佐野に赴き、ここでもいくらかの制作をしています。一七四三(寛保三)年、本所(墨田区)で亡くなりました。八十一歳でした。
乾山が江戸に来たときに法親王の依頼を受けて、京都からたくさんの鶯を運んで、上野の森に放したといわれています。いま、JR山手線の駅に「鶯谷」の名が残っています。
乾山にはいくつかの著書があります。『陶工必用』『陶磁製法』『楽焼秘書』などです。乾山は亡くなる直前に、地主だった次郎兵衛という人に陶技のコツを口述筆記させました。『口述伝書』といいます。この伝書は、江戸で乾山の名跡を継いで作陶した人々に代々伝えられました。
宮崎富之助~酒井抱一~西村藐庵~三浦乾也を経て浦野乾哉に至りました。浦野乾哉は晩年、バーナード・リーチと富本健吉に楽焼の手ほどきをした人として知られています。