top of page

 

江戸時代の諸窯十四

 

岐阜県

 飛騨 江戸時代はじめ飛騨は、金森氏(仁清を指導した金森宗和の実家)が三万八千石で封じられていました。全土の約九割が山地で気候の条件からも、農業には適地とは言えませんが、鉱山開発と森林資源などで実質十万石以上の豊かさを保持していました。

 一八三四(天保五)年、幕府は金森氏を出羽上ノ山へ移封し、飛騨を幕府領としました。

 江戸時代、飛騨国府のあった高山市周辺にはいくつかの小さな窯の盛衰が見られます。小糸焼、江名子焼、三福寺焼、山田焼、渋草焼などです。飛騨のやきもの中で最も、古いのが小糸焼です。金森氏の時代に始まったと考えられています。山田焼は最も長く操業した窯です。一八〇〇年ころに始まって一〇〇年余り、大正時代まで続きました。

渋草焼 一八四一(天保十二)年、飛騨の代官豊田藤之進の後援で始まった窯です。数年後には磁器の焼成に成功し、九谷から工人を招き、俗に飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる赤絵の優品を作りました。しかし、豊田氏が任を解かれて陣屋からの援助が途絶えると、山田焼と同じような雑器を焼く窯になりました。

美濃 本州のほぼ中央に位置する美濃地方は、畿内と東国を結ぶ交通の要衝で、昔から「美濃を制する者は天下を制する」と言われてきました。江戸時代、幕府は美濃には大大名をおかず、モザイクのように細分し直轄領、小藩、旗本領を配しました。

 美濃焼の一部は尾張徳川領に組み込まれましたが、多くは有力な保護を失い技術の伝承ができなくなり、単調な日用品をつくる窯に変身しました。さらに歴史記録もなくなり、やがて美濃焼は忘れられ、最も安価なセトモノの一部として扱われるほどになりました。

福井県

 越前焼 福井県丹生郡織田町と宮崎村一帯に展開する越前焼は平安末期から現代にまで続いた日本六古窯の一つです。江戸時代の製品は、大甕やすり鉢、壺のほかに徳利、片口、おろし皿など生活用品が中心です。

 越前焼には、巨大な甕をつくるための「ねじたて成形」と呼ばれる独特の技法が伝えられています。まず「フネ」という固定した木製の台の上に粘土の塊を円盤状に伸ばして底部をつくります。次に工人がフネの周囲を反時計回りに後退しながら、太い粘土紐を円盤の周囲に積み、木鏝を使って粘土の厚さを整えながら成形する方法です。写真は、この方法で作った大きな甕で、高さは約一七〇センチです。

 三国焼(札場焼) 一六九〇(元禄三)年、出雲出身の吉川某が三国港へ移住して、無釉の土器をつくり始めたのが最初です。享保のころには施釉陶器をつくりましたが、やがて経営不振で廃窯しました。一七六八(明和五)年、この窯を譲り受けた札場某が窯を改良して再興しました。二代目、三代目とさまざまな展開をしましたが、四代目の時、九谷焼を倣作し、藩主松平春嶽から札場焼の名を与えられました。製品には八郎手や赤絵金襴手の急須や盃、小皿などの優品があります。

江戸時代の諸窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

茨城県常陸太田市美里町

茨城県日立市

茨城県日立市

茨城県日立市2

茨城県日立市2

茨城県日立市3

茨城県日立市3

茨城県日立市4

茨城県日立市4

茨城県日立市5

茨城県日立市5

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市3

栃木県黒磯市3

栃木県市貝町

栃木県市貝町

栃木県那須市

栃木県那須市

栃木県那須市2

栃木県那須市2

栃木県那須那珂川町

栃木県那須那珂川町

栃木県宇都宮市

栃木県宇都宮市

栃木県益子町

栃木県益子町

群馬県渋川市

群馬県渋川市

群馬県水上町

群馬県水上町

群馬県水上町2

群馬県水上町2

群馬県前橋市

群馬県前橋市

群馬県前橋市2

群馬県前橋市2

群馬県前橋市3

群馬県前橋市3

埼玉県嵐山町

埼玉県嵐山町

群馬県某所

群馬県某所

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市2

埼玉県東松山市2

埼玉県浦和市

埼玉県浦和市

群馬県岩槻市

群馬県岩槻市

埼玉県岩槻市2

埼玉県岩槻市2

埼玉県長瀞町

埼玉県長瀞町

東京都某所

東京都某所

東京都某所2

東京都某所2

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市2

神奈川県小田原市2

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市2

神奈川県横浜市2

bottom of page