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江戸時代の諸窯十三

 

石川県

 九谷焼三

吉田屋窯 再興九谷の中で最も広く知られた窯です。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が一八二四(文政7)年に開いた窯で、豊田家の屋号から吉田屋窯と呼ばれました。最初は、古九谷を焼いた窯のすぐそばに、窯が築かれましたが、地理的に不便だったため、一八二六(文政九)年に山代の越中谷に移転し、京都、信楽から多くの陶工を集め、若杉窯に匹敵するほどの規模で操業しました。優品を作るため採算を度外視した経営は主人の他界で行き詰まり、僅か八年ほどで廃業しました。

 吉田屋窯では、質の良い鑑賞品と量産方式による生活用品をうまく併用して生産が行われました。製品は、平鉢、皿、徳利、向付、手あぶり、香炉、土鍋など広範囲にわたっています。文様は伝右衛門の好みと文人画の流行期の影響を受けて、中国の故事に題材を求めた人物画や鶴、孔雀、象などの動物、松竹梅などの吉祥文、百合、瓜、椿、柘榴などの植物文が幅広く使われました。絵付け技法は古九谷青手に見られる塗埋手で、絵具は原則として赤は使わず、緑、黄、紫、紺青の四彩で、全体に青く見えるところから青九谷と呼ばれ、これ以降の加賀九谷に長く影響しました。

宮本窯 吉田屋窯の支配人だった宮本宇右衛門が一八三六(天保六)年に吉田屋窯を譲り受けて再興した窯です。この窯では、もと染物職人だった飯田屋八郎衛門が主工となり、赤絵細描の独特の画風を確立して優れた製品を作りました。題材の多くを中国の故実に取材した人物を中心に細密に描かれたこの画風を「八郎手」と言います。器形の多くは皿や鉢、徳利などの日用品です。細密な絵柄は生活用品にはやや不向きな感じがします。八郎衛門の没後、この窯は衰微しました。

粟生屋窯 若杉窯や吉田屋窯で主工をつとめた名工粟生源右衛門が一八二二(文政五)年に小松に開窯しました。九谷には珍しい焼き締めの上に白化粧を施して絵付けをする手法で作られました。製品は、硯箱、文庫などの木製品を見るような趣のものがあります。

その他 このほかにも石川県の全域一帯に多くの小規模の窯の盛衰が見られました。

大樋焼

加賀藩五代藩主前田綱紀は文化行政推進のため、裏千家四代宗室(仙叟)を招きました。この時仙叟に随行した長左衛門が、一六六六(寛文六)年に卯辰山丘陵地にある大樋村に楽焼の窯を築いたのが大樋焼の始まりです。

長左衛門は河内の出身で、二五歳のころ京都の樂家に弟子入りし楽焼の技法を学びました。仙叟に伴って金沢へ行ったのは三七歳の時で、藩から土地を賜り、禄を受け、仙叟の指導の下で雅な茶道具を作りました。

その後、大樋焼は代を重ねて、現在の一〇代長左衛門氏まで楽の脇窯として続いています。京都の楽焼には赤楽と黒楽がありますが、大樋では本家に遠慮して飴色の釉薬を使うことになったと伝えられています。

江戸時代の諸窯
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

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栃木県黒磯市2

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栃木県黒磯市3

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栃木県市貝町

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栃木県那須市

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栃木県那須市2

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栃木県那須那珂川町

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群馬県水上町2

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群馬県前橋市

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群馬県前橋市2

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群馬県前橋市3

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群馬県某所

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埼玉県東松山市2

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東京都某所2

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神奈川県小田原市2

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神奈川県茅ヶ崎市2

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神奈川県茅ヶ崎市3

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