陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯二
青森県
青森県では悪土焼をとりあげます。弘前市下湯口(旧悪土村)で作られました。弘前藩庁の日誌によると「一八一〇(文化七)年頃に、悪土村宇和野で瓦の焼成と瀬戸焼が行われた」とあり、この頃に弘前津軽藩窯として始まったと考えられます。やがて瓦焼成はなくなり、主に陶器窯として家庭用品を中心に作りました。器種は碗、皿のほか大小の徳利、すり鉢、種々の甕、片口、土瓶などです。胎土は緻密で硬く焼け締まり、釉薬は土灰釉が多く使われています。筒描きで山水、花、詩文などを軽快に描いた文様は、東北地方では特異な作風です。写真は婦人の化粧具に一つで、鬢付け油を入れる油壺です。
明治になって藩の保護がなくなり、民間の経営となりましたが、鉄道の開通に伴って先進地の製品が流入するようになって斜陽化し、大正中期に廃絶しました。
岩手県
岩手県には、伊万里の陶工を招いて始めた伊万里系、仙台堤焼の技術を取り入れた堤系、福島の相馬の技術が伝えられた相馬系の三つの流れがありました。
山蔭焼 現在の盛岡市茶畑(八幡山蔭)で営まれた盛岡南部藩の磁器窯です。藩の殖産興業を図るため、一八三五(天保六)年に唐津から陶工と画工を招いて開窯しました。最初は順調に始まったのですが、僅か一年後に大規模な凶作にみまわれて、続けられなくなってしまいました。製品は染付磁器で、日用雑器をはじめ花器、茶器など多種多様なものが知られています。一般には伊万里焼に良く似ていますが、竹虎、奔馬、四君子などの文様の手あぶりは山蔭焼独特のものです。
鍛冶町焼 花巻市藤沢町で焼かれた陶器です。伝承によれば一八〇一(享和元)年ころ、仙台の堤焼の技術が伝えられて民間に興った窯でしたが、最盛期には盛岡藩の御用を受け、苗字帯刀を許されるほど有力でした。明治になって禄を離れ民窯として続きましたが、昭和の初期に後継者がなくて途絶えました。製品は鉢、片口、甕、徳利、碗、皿など多種の日用品で、作風は高取焼に似て、黒から明るい褐色までのさまざまな釉薬が使われました。
小久慈焼 一八一三(文化一〇)年ころ、地元の農民甚六と言う人が、八戸藩(南部支藩)に願い出て、相馬の陶工に焼かせたのが始まりと伝えられています。その後、甚六は熊谷姓を名乗り、代々受け継いで現在も、久慈市小久慈町の伝統工芸として活躍しています。製品は、皿、鉢、甕、すり鉢、片口など日用雑器の陶器で、鉄釉とわら灰釉を使った素朴な作風です。