陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯九
静岡県
志戸呂焼 志戸呂(しとろ)焼の周辺(島田市金谷町一帯)は、平安時代から鎌倉時代にかけていわゆる山茶わんを中心とする中世陶器の生産地の一つでした。(これら中世の陶器と志戸呂焼とはつながってはいません) 志戸呂焼は十五世紀の中頃に瀬戸の工人が窯を築いたのが始まりと推定されています。当初は、近隣の需要に応じて日用品を焼いていましたが、常に瀬戸、美濃、方面からの影響を受けながら盛衰を繰り返しました。志戸呂焼の胎土は鉄分を含み、焼き上がりは淡い茶褐色になります。これに灰釉、鉄釉を施し、質素な作風の茶入れ、葉茶壷などの茶道具や、瓶子や徳利、すり鉢、皿などを作りました。
志戸呂焼は、小堀遠州が好んだと言われる遠州七窯の一つに数えられていますが、小堀遠州が直接かかわったか否かは不明です。
賎機焼 静岡市の賎機山(しずはたやま)周辺で焼かれた陶器です。一五七二(元亀三)年に太田七郎右衛門という人が盃を徳川家康に献上したのが始まりと伝えられています。江戸時代には浅間神社で使う神饌具のカワラケを中心に楽焼風の茶話や盃を作りました。小林一茶に「志づやしづ しづはた焼に 汲め清水」という句があります。
長野県
長野県の施釉陶器は飯田市にあった尾林焼が一六〇九(慶長十四)年の創業で最初のものです。窯跡からは、主に鉄釉の茶わん、茶入れ、徳利、小皿などの陶片が出土します。
江戸時代後半には県下の各地に窯が築かれ、明治時代まで盛衰を繰り返しました。長野県は瀬戸、多治見、常滑から比較的近いところですが、地形が険阻で広いため、重くて壊れやすい大型の甕などは運ぶのに不便で、地域ごとに需要に応じて作るしかなかったのです。長野県下にあった近世窯の多くは民窯で、経済力のある農民、町衆が個人で始めたものです。そのほかには、高遠藩(内藤氏)の高遠焼、松代藩(真田氏)の松代焼、松本藩(戸田氏)の浅間焼などのように、藩窯として始められ後に民間に譲られた窯がありました。このほかに須坂吉向焼や風越焼のようにお庭窯で終始したものがあります。
各地に展開したこれらの窯の操業に携わった陶工たちは、主に瀬戸、美濃、常滑からそれぞれの技術や釉法などを伝えました。さらに京都、信楽、九州などからも技術の導入は図られました。
江戸時代を通じてどの窯もかなり順調に推移しましたが、明治になって鉄道が開通したことで運輸が容易になり、先進地域からの使いやすい製品が安く入手できるようになり、地場産業は競合できず廃窯せざるを得なくなりました。
長野県各地で採取される陶土は鉄分を含んでいて焼くと褐色になります。この欠点を補うために、失透釉を使い、掛け流しの面白さを強調した製品が多いです。