陶芸家 江口滉
江戸時代の諸窯五
福島県
福島県には江戸時代以降二十カ所にも及ぶ窯が経営され、さまざまなやきものが作られていました。しかし、現在まで続いているのは数例あるだけです。
会津本郷焼
一六四七(正保四)年に会津に入府した藩主保科正之は、城の改修を機に冬に凍み割れする屋根瓦の改善を思い立ち、岩瀬郡長沼村で作陶していた瀬戸出身の陶工・水野源左衛門を招いて、良質の陶土を探させました。やがて本郷村の山に陶土を見つけ、作陶の準備をしていた源左衛門は、突然病死しました。藩では源左衛門の弟の長兵衛を呼び寄せ跡を継がせました。長兵衛は研鑚の末、寒さに耐える施釉の本瓦作りに成功する一方、藩主のための茶陶を作るなど数々の功績を残し、瀬戸右衛門の名を授けられました。
その後窯場では、藩の保護・奨励などがあり、領内の日用品の生産が拡大しました。さらに近隣から良質の陶土のほか磁器の原料となる陶石が見つかるなど、磁器生産の機運が盛り上がりました。一七七七(安永六)年、江戸の陶師・近藤平吉を招いて取組ませたり、一七九七(寛永九)年から佐藤伊兵衛を肥前有田に派遣して磁器製造を学ばせるなど、藩は産業振興に力を入れました。会津本郷は、現在も磁器と陶器を作り続けている珍しい窯の一つです。
相馬駒焼
一六二三(天和九)年、将軍の上洛に随行した相馬藩主・相馬利胤は、京都の御室焼きの風雅を愛で、家臣の田代源吾右衛門を仁清の下に遣り、陶法を学ばせました。源吾右衛門は七年間の修行の末、仁清から清の字を貰い清治右衛門と改名して帰郷し、一六四八(慶安一)年に相馬城下に開窯しました。はじめは仁清風の茶碗などを作りましたが、二代目以降工夫改良を重ね、藩主の家紋にちなんだ跳ねる奔馬の絵を描いて駒焼きと名付けました。藩政時代は藩主専用の窯で、一般には禁制品でした。
二〇一一年三月の東日本大地震のため、十五代続いた駒焼きは今、制作が止まっています。
大堀相馬焼 双葉郡浪江町大堀を中心に焼かれた陶器です。相馬藩窯である駒焼田代窯に対して民窯として操業しました。一時は東北地方では最大級の生産量と流通圏を誇っていました。一八五五(元禄三)年、大堀村に住んでいた相馬藩の地侍・半谷休閑の使用人の左馬という者がやきもの作りを始め、駒絵を描いた茶碗を売り出したところ、好評だったので、休閑はこれを村の産業にしようと考え、最初は村人七人に技術の習得をさせて操業を始めました。藩では他藩からのやきものの流入を制限するなどして、この窯の振興をはかりました。製品の需要が伸びるにしたがって窯数も増えて、十八世紀初頭には業者が一〇〇戸を超える盛況を呈しました。明治以降は鉄道の開通に伴って、瀬戸物の流入のため、かなり縮小しましたが、近年まで操業が続いていました。ところが東日本大地震によって起こった原発からの放射能漏れによってこのあたり一帯は避難区域となり、今はこの地での操業はできなくなっています。