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九州の窯十七 薩摩焼

 

 現在の鹿児島県、すなわち江戸時代に島津藩領であった薩摩と大隅で焼かれていたやきものを一括して薩摩焼きと呼びます。薩摩焼も他の九州の各窯と同じように、文禄・慶長の役後に興ったやきものですが、他窯と違っているのは、鹿児島県にはそれ以前に本格的なやきものが全く無かったことと、島津藩が朝鮮から連れてきた陶工の人数が桁外れに多かったことです。

薩摩は、古代から海外との交流が盛んで、諸外国の文物には敏感であっただろうと想像されますが、やきものに関しては、全く見ることができないほど遅れていました。

千利休の直弟子で、茶の湯には造詣の深かった当時の藩主島津義弘は,領内で陶磁器の殖産を興すことを考えていたようで、連れてきた陶工は八十人以上もいました。

薩摩軍の撤退のとき、陶工たちは三隻の軍船に分乗させられました。三隻の船は鹿児島湾を目指して航行したのですが、東シナ海の波浪に阻まれて、それぞれがバラバラになって、串木野の島平に四十人余り、東市来町の神之川に十数人、そして鹿児島湾の前浜には二十数人が上陸したと伝えられています。そしてこの上陸地点の違いが、その後の陶工たちの活躍の違いとなりました。言い換えると、薩摩領内におけるやきものの展開に大きな影響を残すことになったのです。

一方、藩主島津義弘は、名護屋へ戻った後、国元へは帰らずに秀吉没後の政局処理のためそのまま大阪へ赴きました。ところが、やがて東西の政争に巻き込まれ、関が原の戦いでは西軍(石田軍)に加担することになりました。戦いに敗れた義弘は、かろうじて大阪を脱出し鹿児島へ戻りましたが、しばらくは蟄居することとなりました。この間、鹿児島に連れてこられた陶工たちは、なんらの保護政策も施されずに、言葉や生活習慣の判らない異郷の地で、自力で生計を立てていかなければなりませんでした。

薩摩焼は、四百年の歴史の中で五十箇所を超える窯跡を残す多様な展開を見せました。

これら薩摩焼の窯の系統は、竪野系、苗代川系(串木野系)、龍門司系、元立院系(西餅田系)、平佐系の五系に大別できます。このうち元立院系は、渡来陶工によるものではなく、小野元立という修験僧が始めたもので、平佐系は川内の素封家が有田からの技術を導入して始めた磁器窯ですが、現在は廃絶しています。

次回以降、これらの窯の経緯を説明します。

 

 

 

九州の窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

茨城県常陸太田市美里町

茨城県日立市

茨城県日立市

茨城県日立市2

茨城県日立市2

茨城県日立市3

茨城県日立市3

茨城県日立市4

茨城県日立市4

茨城県日立市5

茨城県日立市5

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市2

栃木県黒磯市3

栃木県黒磯市3

栃木県市貝町

栃木県市貝町

栃木県那須市

栃木県那須市

栃木県那須市2

栃木県那須市2

栃木県那須那珂川町

栃木県那須那珂川町

栃木県宇都宮市

栃木県宇都宮市

栃木県益子町

栃木県益子町

群馬県渋川市

群馬県渋川市

群馬県水上町

群馬県水上町

群馬県水上町2

群馬県水上町2

群馬県前橋市

群馬県前橋市

群馬県前橋市2

群馬県前橋市2

群馬県前橋市3

群馬県前橋市3

埼玉県嵐山町

埼玉県嵐山町

群馬県某所

群馬県某所

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市

埼玉県東松山市2

埼玉県東松山市2

埼玉県浦和市

埼玉県浦和市

群馬県岩槻市

群馬県岩槻市

埼玉県岩槻市2

埼玉県岩槻市2

埼玉県長瀞町

埼玉県長瀞町

東京都某所

東京都某所

東京都某所2

東京都某所2

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市

神奈川県小田原市2

神奈川県小田原市2

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市2

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県茅ヶ崎市3

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市

神奈川県横浜市2

神奈川県横浜市2

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