陶芸家 江口滉
九州の窯十四 高取一
一六〇〇年、黒田長政は関が原の戦いの戦功によって豊前中津から筑前名島(福岡市)五十二万石に加増転封されました。この時、渡来陶工八山に命じて筑前鞍手郡の鷹取山麓(直方市永満寺)に窯を築かせたのが高取焼の始まりと伝えられています。
高取焼はその後たびたび窯場を領内のあちこちに移転し、その都度製品の内容が変化したため、現在高取焼を称している窯場は数ヶ所あり、それぞれが特色ある活動を展開しています。
八山は文禄・慶長の役に出陣した黒田軍に伴われて渡来したとも、加藤清正の軍とともに渡来したとも伝えられていて、どちらが正しいかは判らないままです。八山が最初に窯を築いたのは、鷹取山の西麓で宅間というところです。ここで八山は「高取八蔵」と改名し、藩から俸禄を受けて主に李朝風の日用品を作りました。
およそ十年後、窯を少し北方の内ヶ磯に移しました。八蔵はここで多くの細工人弟子を抱え、李朝風の技術を基に当時流行していた織部風の意匠を取り入れるなど変化に富んだ作品を作っています。
二代目の藩主忠之のとき、八蔵父子は京都伏見の小堀遠州の本へ派遣され、茶の湯や遠州好みの茶器つくりの指導を受けました。内ヶ磯窯の操業はおよそ十年間ほどですが、日用品にも茶陶にも個性的で充実した作品が残されています。
初代藩主長政が亡くなった翌年の一六二四年に、八蔵父子は朝鮮国への帰国を願い出て忠之の怒りに触れ、禄を没収され、南へ三〇キロも離れた山田村唐人谷というところへ蟄居させられました。この時内ヶ磯で働いていた多くの弟子たちは離散し、その一部は上野焼に合流したと伝えられています。
山田村に移った八蔵は、近郷の人々の求めに応じて日用品を焼いて過ごしましたが、藩からの制約を受けることなく、自由な立場で製作できたため、個性的で古高取の中では最も親近感を持つことができる作と評価されることがあります。
六年後の一六三〇年、八蔵は赦されて白旗山の北麓(飯塚市)に新しい窯を築き、遠州七窯の一つとしての茶陶高取の基礎作りがはじまりました。製品は茶わん・茶入れ・水指など本格的な茶陶が中心で、遠州好みの「綺麗サビ」に即した洗練された軽妙で瀟洒な作風は「西の仁清」と呼ばれるほどの評価を受け、大名茶の湯が流行した江戸前期の代表格の地位を確立しました。
八蔵はここでその生涯を閉じ、息子が次の世代を継承することになりました。
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