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九州の窯六 伊万里の輸出品

 

 十七世紀からはじまった輸出のための製品を焼いたのは、主に内山と呼ばれていた有田皿山の中心地にある窯と南川原の柿右衛門窯でした。

 オランダの商人が求めたのは、初期伊万里風の染付磁器ではなく、景徳鎮で作られていた芙蓉手と呼ばれる大作で、大盤、大壷、水注、瓶、大蓋物などでした。この要望に応えるために有田皿山では大急ぎで景徳鎮の代表作の模倣をしなければなりません。当然のことながら、技術の革新が必要でした。陶工たちは、先を争って研鑚に励み、極めて短い期間にこの難題を克服していったと思われます。

 芙蓉手というのは、中国明朝期の十六世紀後半頃から十七世紀前半頃、景徳鎮で作られた染付磁器の様式のひとつで、その多くは大盤で見られます。中央に丸窓を大きく設けて主文様を描き、その周囲をいくつかに細かく区画してそれぞれに副文様を描いたもので、その構成が大輪の花房を連想させることから日本で名付けられた呼び名です。芙蓉手は、盤だけでなく、蓋物や瓶、壷などにも同じような方法で文様の施されたものがあります。壷などに描かれた図柄を収めるための枠取りを窓絵といいます。

 有田で作られた輸出用の芙蓉手の主文様は、花鳥、人物、山水などのほかに注文に応じてヨーロッパの貴族の家紋や帆船など、当時の陶工たちが直接目にすることのできない文物なども登場します。

 色絵磁器も染付と同じように中国陶磁のコピーが注文されていました。色絵磁器は柿右衛門によって開発されましたが、輸出時代を迎えて、その技術も急速に進化し、様式も景徳鎮の代表的なものの模倣から、次第にヨーロッパ貴族たちの好みに応えるものに変化し始めます。はじめは中国陶磁をかなり忠実に写していましたが、やがて窓枠や地紋構成がなくなり、花鳥や松竹梅などを純白の地に絵画的にのびのびと描かれるようになりました。これを柿右衛門様式といいます。(柿右衛門については後で改めて説明する予定です)

 ヨーロッパではこの色絵磁器に人気が集中し、垂涎の的となりますが、一七一〇年代になって、まずドイツでマイセン窯が築かれて、有田の色絵磁器の模倣がはじまりました。これはやがてフランスやイギリスにも波及し、有田への注文が減少しはじめました。

有田では、柿右衛門様式に替わって染錦手(金襴手)を開発して、輸出に力を入れ続けますが、十八世紀になると、ヨーロッパにおける海外貿易の主導権はイギリスに掌握されて、オランダの東インド会社は解散を余儀なくされました。このため、有田の陶磁器は海外の市場をなくしてしまったのです。

九州の窯
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

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栃木県黒磯市2

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栃木県那須市2

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