陶芸家 江口滉
九州の窯十六 八代焼と小代焼
八代焼は、高田焼、平山焼とも言います。肥後熊本藩細川家の御用窯として三百年近く続きました。一六三二年、細川氏は小倉から転封されました。この時、上野焼の陶工上野喜蔵は三男を残し、長男、次男とともに肥後に移り、八代市奈良木に窯を築きました。これが八代焼の始まりです。
喜蔵の没後、跡を継いだ二人の息子たちは、少し離れた平山に窯を移しました。この平山窯は明治になって日奈久へ移るまでの二三〇年間代々子孫に受け継がれました。
初期の遺品は数が少ないですが、窯跡から採取した陶片には、茶わん、壷、徳利、鉢などがあり、粗い赤土の素地に土灰釉、飴釉、なまこ釉を掛けた豪放で迫力のあるものが見られます。
平山窯に移って三代目頃から水簸したきめの細かい陶土を使った象嵌が作られるようになり、四代目頃からは素地にも釉薬にも一層の工夫がなされ、象嵌は精巧で瀟洒なものになり、六代目の頃には八代焼のスタイルが完成し、以来現在までこの陶法が受け継がれています。
八代焼の特徴である象嵌青磁は、朝鮮の高麗時代に発達した技法で、半乾きの素地にヘラや押印で文様を凹刻し、その凹部に色の異なった泥を塗りこんで装飾するものです。
小代焼(小岱とも書きます)は、文禄・慶長の役のとき、加藤清正軍が連行した陶工が始めたとする説があり、その窯跡らしいものが残っていますが、それ以上のことは判ってはいません。
江戸時代になって改易された加藤氏に代わって細川氏が入国したとき、それまで上野喜蔵らとともに上野焼に携わっていた牝小路(ひんこうじ)源七と葛城八左衛門は、玉名郡小代山の北東麓の古窯のそばに新しい窯を築いて焼き物つくりを始めたと伝えられています。その後、牝小路、葛城の二家が代々陶業を続けてきましたが、大正時代になって一旦廃業しました。現在の小代焼は、その後伝統を惜しんだ近重治太郎氏によって再興された窯です。
小代焼の陶土は、赤黒く砂目の多い荒土です。これに灰釉を厚く施し、さらにワラ灰の白濁釉で打ち絵するなど、褐色または暗灰色の地とワラ白とのコントラストを見せる素朴豪放な美しさが特徴で、初期のものは朝鮮唐津に似ています。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 茨城県常陸太田市美里町 |
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![]() 栃木県黒磯市 |
![]() 栃木県黒磯市2 |
![]() 栃木県黒磯市3 |
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![]() 埼玉県嵐山町 |
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![]() 東京都某所 |
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![]() 神奈川県茅ヶ崎市2 |
![]() 神奈川県茅ヶ崎市3 |
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