陶芸家 江口滉
九州の窯十八 薩摩焼二 (苗代川一)
串木野の島平に上陸した一行の男女四十数名は、藩主義弘が帰国しなかったため、藩からはほとんど見捨てられた状態でしたが、やがて自分たちの手で未開の地を開墾し、窯を築き、やきものつくりを始めました。とにかく生きていかなければなりませんでした。
この窯跡は、現在の串木野市下名にあり、発掘調査によると、長さ約十五メートル、幅約一.二メートル、高さ約一メートルの半円筒単室傾斜窯で朝鮮半島で雑器焼成に使われたいわゆる蛇窯と推定されています。これが薩摩に渡来した陶工たちが最初に操業した窯です。
このように半農半陶の生活でやっと露命をつないでいた陶工たちは、ここで約四年間操業しましたが、言葉や生活習慣の違いによる地域住民たちとのトラブルが絶えず、やむなく南の苗代川に移転することになりました。ここはシラスと呼ばれる火山灰の厚い層に覆われた丘陵地で、当時は未開地だったのでしょう。
苗代川に移った後もしばらくは苦しい生活がつづきましたが、二~三年後には串木野窯と同じ形式の窯(元屋敷窯)を築き操業を始めました。
この頃になって薩摩藩は、幕府との和平が成立し、藩政が落ち着きを取り戻したことによって、漸く陶工たちも藩からの保護が受けられるようになりました。
発足当初は、シラス台地の下の層から採れる赤土で雑器を作りました。
やっとこの地に落ち着くことのできた陶工たちは、村を見下ろす陸の上に、故国の宗廟の神、壇君を祀る社を建立しました。玉山神社です。
このようにして陶業は進展し、最初の元屋敷窯から堂平窯、五本松窯、東打通窯等々変遷を重ね、明治維新を迎えます。
薩摩焼には白物(しろもん)(白薩摩)と黒物(くろもん)(黒薩摩)の区別があります。素地や釉薬の白いものを白物と呼び、黒褐色のものや濃い色のものを黒物と言います。鹿児島とその周辺で採取される陶土の多くは鉄分を含んでいて、焼くと黒っぽい色になります。
薩摩焼の初期のものの大部分は黒物で、主に民間の日用品として作られました。これに対して陶工たちが渡来したときに朝鮮から持ってきた白い陶土を使って、支配者層の専用品の白い上手物を作りました。原料と技術は渡来したもので焼成だけは日本で行われたという意味で、これらのものを「火ばかり」と言います。
朝鮮半島から運んできた白い陶土もやがて無くなりました。そして領内各地で白い粘土の探索が行われ、遂に指宿で白土(指宿カオリン)を見つけました。これ以降、白薩摩の生産は安定し、さらに有田からの技術の導入を図るなどして、端正で美しい白薩摩へと発展したのです。
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