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九州の窯十一 三川内と波佐見

 

 肥前の陶磁といえば、一般に佐賀県の唐津と有田(伊万里)が想定されますが、長崎県にも見落とすことのできないやきものがあります。平戸(三川内)と波佐見です。

 平戸藩主松浦鎮信は慶長の役の後、巨関という陶工を伴って帰国しました。巨関は平戸の近くに窯を設けました。この窯を中野窯といい、平戸焼きの始まりです。 平戸は古代から海外との交流の拠点として大変栄え、室町時代には、中国やヨーロッパの人々が大勢居留していました。平戸中野窯では在留中国人陶工の指導によって、有田より早くから染付磁器が焼かれていたと考えている学者もいます。この窯は約五十年間続きましたが、針尾島で良質の陶石が見つかったことから、窯を利便性の良い三川内に移転させ、窯場や役所を整備して量産体制を採りました。その後さらに質の高い天草陶石を得て、これらの配合を工夫して、三川内独特の純白できめの細かい磁肌の白磁つくりに成功しました。

 平戸藩では、三川内の窯を藩御用とし、主に皇室や将軍家、大名家などへの献上品の制作に専念しました。そのため、有田や波佐見のような地場産業としてではなく、戦債で優美な絵付けや、精巧緻密な細工物に代表される技術の向上を目指す方向転換をしました。「唐子絵」に代表される染付、「透かし彫り」などの細工物、「卵殻手」といわれる薄地つくりなどは他の窯のマネのできない独特のものでした。

 一方、波佐見は、有田から南へ六キロメートルほどの所にあり、うっかりすると有田の一部かと錯覚しそうですが、江戸時代には大村藩に属し、有田、三川内と並んで肥前の磁器生産の中核的な位置を占めていました。慶長の役の後、大村藩の軍に伴われて渡来した李祐慶という陶工によって始められたと伝えられています。はじめは施釉陶器を焼いていましたが、一六三〇年頃から磁器生産を始め、白磁、染付、草花文様を掘り込んだ青磁を多く作り、一時は海外への輸出も盛んに行われていました。十七世紀の終り頃から、輸出が止まり、国内向けの磁器生産に転換しました。そして最盛期には、全長一六〇メートルを超え、焼成室が三〇以上もある世界最大級の巨大な登り窯が、幾基も操業し、庶民の需要に対応した安価な染付碗(くらわんか等)の大量生産を押し進めました。

 私たちが普段の食器として磁器を使っていますが、このきっかけを築いたのは波佐見だったのです。

☆くらわんか=江戸時代の後半、京阪間の交通の要路の一つとして、京都伏見と大阪八軒屋を結ぶ淀川の船便(三〇石船)がありました。往復する船が、ほぼ中ほどの枚方辺りにさしかかると「飯くらわんか」「餅くらわんか」と呼びかけながら食べ物を売る小舟がありました。この時に使われていた使い捨ての碗を『くらわんか』と言い、波佐見、砥部、などで作られていました。今も時々淀川の川底から採取されることがあります。

九州の窯
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