陶芸家 江口滉
九州の窯4 初期伊万里
佐賀県有田郷を中心に鍋島藩領内で焼かれた肥前磁器は、伊万里港を経て各地に搬出されたために一般に「伊万里焼」と呼ばれることになりました。
文禄・慶長の役に出陣した佐賀藩の鍋島直茂は他藩の場合と同じように、滞陣中に道先案内や食糧調達などに協力した朝鮮人農民や陶工、織物工、鍛冶工などの多くの工人を連れ帰り、自領内に住まわせました。これらの内陶工たちの一団は、国家老多久安順に預けられ、多久氏の領内に窯を築き、しばらくは高麗風の粗陶器を焼いていました。
この陶工たちのリーダー格だった李参平は、故郷で作っていた李朝白磁を作りたいと思い、領主の許しを得て、原料となる陶石を求めて各地を探索して回り、遂に有田川の上流(現在の泉山)で白磁鉱を見つけました。その後一六一六(元和二)年頃、一族十八人とともに泉山に近い白川天狗谷に窯を築いて白磁の焼成を創めました。「これがわが国における磁器焼成の最初である」とするのが定説とされてきました。ところが近年の発掘調査によると天狗谷窯の創業は約一〇年さかのぼる一六〇五(慶長一〇)年頃とする説が今では有力です。
この頃の有田郷は、人家はもちろん田畑も殆ど無い自然林の茂る狭い谷間(たにあい)でした。しかしこの地形は、幾筋にも流れる小川には、流水を利用して陶石を砕く水碓(みずうす)を設けることができ、その近くには登り窯を築くに適した山の斜面がいくらでもあるなど、やきもの作りにとっては格好の場所でした。
李参平らによる磁器焼成の報せが伝わると、肥前各地でやきもの作りをしていた渡来陶工たちは続々と有田郷に集まりました。とりわけ、宗伝と言う陶工の未亡人で「百婆仙」と呼ばれていた婦人は、千人近い陶工集団を引き連れて移住し、稗古場というところの天神森を中心に白磁窯の経営を創めたと伝えられています。後に赤絵の技法を開発した酒井田柿右衛門一家もこの頃有田郷の西方南川原(なんごうら)に移住してきました。
日本の磁器製造は、朝鮮から渡来した陶工たちによって始められたのですから、李朝磁器の模倣からスタートしたのでした。
一方、わが国には、十四世紀(室町時代前期)頃から、中国江西省景徳鎮窯で焼かれた染付磁器の輸入が始まっていました。十六世紀頃になると、景徳鎮の民窯は膨大な生産量を誇り、海外への輸出が盛んになり、わが国でもこれらの製品が、全国津々浦々に浸透していました。十七世紀になって有田郷での磁器製造が安定してくると、次には中国渡来の染付磁器と同じようなものを作り、輸入品に取って代わることとなりました。この頃までの有田郷で作られた磁器製品を一般に『初期伊万里』と呼んでいます。
染付磁器=素地の上に酸化コバルトを含む絵の具で文様を描き、透明の釉薬を施して焼く技法とその製品を、日本では染付と言い、中国や朝鮮では青花と呼びます。染付に使われる絵の具は、酸化コバルト、マンガン、ニッケル、鉄などを含む鉱物で、日本では呉須(ごす)と言い、中国、朝鮮では回青と言います。
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