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九州の窯2 唐津1

 

 やきもののことを東日本ではセトモノと呼び、西日本ではカラツ(モノ)と言います。これは唐津のやきものが、瀬戸の陶磁器同様、私たちの日常生活に深く浸透してきた証です。「肥前のやきもの」とか「唐津焼」などに関する書物を読んでいると、やきものの代名詞として「唐津」という言葉が使われていることがあって、何度か読み直してみることがありれます。

「唐津焼」の名称が記録に登場するのは、一六〇三(慶長三)年が最初です。しかしこの地方ではそれ以前からやきもの作りが行われていたので、ここでは、それらも含めて唐津焼として扱います。

「織部」の説明で岸岳周辺の古窯跡に触れましたが、ここが九州の陶磁器の創業地です。岸岳周辺には、当時としては最も進んだ『割り竹式登り窯』が使われていたことが判っています。そしてこの窯跡からは叩き技法の壷や甕、わら灰釉や土灰釉を施した陶片が出土します。これらは、十五世紀頃の北朝鮮系のやきものによく似ています。これらのことから、岸岳古窯の創業は十五世紀末から十六世紀初頭頃と考えられていますが、記録された資料がないために正確なことは判っていません。

 中世末期頃の九州の経済活動に大きな役割を担ったのは、肥前松浦党の一族で組織されていた倭寇で、外国との文物の交流に大きな役割を果たしました。松浦党倭寇は、八幡船を繰り出して南北朝鮮沿岸から中国沿岸にまで進出して交易や海賊働きをしました。このような中、李朝中期頃の北朝鮮から陶工が北九州に渡来し、波多氏の城下で焼き物作りを始めたと思われます。

 前にも説明したとおり、波多氏は秀吉の勘気に触れて突然改易されました。このため、岸岳周辺の窯場の操業は止まり、陶工たちは離散することになりました。波多氏の後に新しく唐津藩主となった寺沢広高は美濃出身で利休門下の茶人であり、経済に明るい武将で、陶窯の復興に力を注いだので散り散りになっていた陶工たちが集まり、また、文禄・慶長の役の後に新しく渡来した陶工たちと共に、現在の伊万里市南波多町一帯に陶業が再興されました。これを椎の峰窯と言います。

椎の峰窯は、藩の保護のもと、近くに伊万里港を控えて一時は唐津焼の中心地として三百基以上の窯が操業し全盛を極めました。この間に寺沢氏は廃絶し、その後江戸時代を通して唐津藩はめまぐるしく藩主の交替が続きました。一時は大変栄えた窯業は、一七〇〇年頃、伊万里の商人との間に金銭上のトラブルが起こり、多くの陶工が所払いとなりました。これを椎の峰崩れと言います。椎の峰を去った陶工たちは肥前の各地に離散しましたが、トラブルに関与しなかった中里甚右衛門ら数名は、やがて藩から士分待遇を受けて、現在の唐津市坊主町に御用窯を開くことになりました。さらに数年後には、現在の唐人町に移転しました。この窯を茶わん窯と呼び、現在に至るまで、中里氏によって焼き続けられています。

 

 

 

 

 

 

九州の窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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